2018年3月30日金曜日

2018年3月30日(金)受難日礼拝「エロイとエリ」 稲山聖修牧師

2018年3月30日
泉北ニュータウン教会
受難日礼拝
説教「エロイとエリ」
稲山聖修牧師

十字架刑が残酷な処刑法であるとわたしたちは聞いてまいりましたが、時にその姿があまりにも美しく描かれ、その惨たらしさが現実味を帯びないという理由で杭殺柱刑、つまり串刺刑に近いものであったと指摘する人もいます。この苦しみの中で救い主であるはずのイエス・キリストが、神を讃えるのではなく「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ぶさまが、マルコとマタイの両福音書には生々しく描かれています。わたしたちが聖書を聴き、その言葉を味わうときには、神の御子であるはずのイエス・キリストがなぜこのような叫び声をあげる様子がことさら記されているのかと、その壮絶さを超えて大きな戸惑いに巻き込まれてしまいます。

受難日礼拝の今宵は、キリストの苦難としては最大級のこのいまわの苦しみをめぐり、「わが神」との言葉に注目してみたいと考えます。実はイエス・キリストは、聖書を引用して律法学者と論争したり、癒しのわざを行ったりするという必要な場合を除いて、マタイ・マルコ・ルカ福音書では神という言葉をあまり用いたがろうとはいたしません。例えば民衆や弟子たちに語り伝え、わたしたちも礼拝で唱和いたします「主の祈り」には、神という言葉は一言も出てまいりません。神という言葉に代わって用いられるのは「アッバ」つまり「お父さん」あるいは「パパ」というような意味合いの言葉が軸として用いられるのであります。不当な身柄の拘束を前にし、恐怖の只中で献げたゲツセマネの祈りの場合も同様です。そのイエス・キリストがいったいなぜ、十字架刑における断末魔に近い状況の中でわざわざ「わが神」と呼ばわっているのか。少なくとも福音書の書き手はそのように記すのか。極めて謎めいています。

その謎を解く鍵が、マルコ福音書の「エロイ」という叫びと、マタイ福音書の「エリ」という叫びです。エロイという叫び。これはアラム語で発せられています。アラム語とは福音書の世界ではギリシア語を話せない人もまた用いていた、話し言葉の訛りあるヘブライ語です。エルサレムのような中央で用いられる言葉ではなく、エルサレムの城壁の外で暮らす人々、とくにサマリア人や異邦人と、人々の暮らしが混在していたユダヤ北部の地域で主に用いられていました。主イエスが病を癒し、教えを伝え、弟子として招いた人々の暮らす地域で話された言葉です。絶えず貧困と飢えと病と排除の中での生活を強いられていた人々の言葉です。この人々に向けられた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは、まさにエルサレムの神殿に仕える人々からも見捨てられ、日々の暮らしの中で「神に捨てられた」としか形容できない重圧と諦めの中で時を過ごすほかなかった人々と、主イエスはなおも苦しみをともにしようとする、いわば究極の救い主としての姿が示されていると申してよろしいでしょう。ユダヤ教のメシア理解では想像もできない姿です。神に見捨てられたとうなだれる人々の苦しみを、主イエスは十字架でともにされているのです。

その一方で、この救いに満ちた神への訴えとは異なる叫びがマタイ福音書には記されます。「エリ」という言葉です。この「エリ」という言葉は文字通りヘブライ語であり、その時代のエルサレムの城壁の内側に住まう人であるならば、ほぼ誰もが聴きとることができ、祭司長たちであれば読み書きも当然できるのであります。この人々へ向けての叫びは、「あなた方は救い主に何をしたのか」という問いです。世の力を頼みとする者は、最後まで救い主の姿は隠されています。しかしマルコの場合でも、マタイの場合でも、主イエスの最後を見届けて「本当に、この人は神の子だった」と呟くのは、イエス・キリストの処刑の検分役であり、現場の責任者であった、ローマ帝国の軍隊の百人隊長でありました。一体何人の反逆者たちを彼は十字架へと連行し、その最期を見届けたことでしょうか。泣きわめく人の姿がそこにあるだろうし、十字架の上から罵倒する者さえいたことでしょう。それが処刑に立ち会う責任者の務めです。けれどもこの百人隊長は、キリストの臨終に際して、まことにこの人は神の子だったと語ります。彼はユダヤ人ではありません。異邦人です。実はこの独り言に復活の兆しを見てとれると同時に、来るべき神の国の光がキリストの受難物語のクライマックスに差し込んでいるのです。主の復活の時を待ちつつ、主の受難を偲びましょう。


2018年3月25日日曜日

2018年3月25日「この苦い杯を取りのけてください」稲山聖修牧師

2018年3月25日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「この苦い杯を取りのけてください」
『ローマの信徒への手紙』7章7~12節
『マルコによる福音書』14章32節~42節
稲山聖修牧師

ゲツセマネでは、イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と語る。キリストは一人では堪えがたい恐怖に苛まれている。その恐怖は弟子たちの前にさらけ出されている。これが苦しみの渦中にある、人となった神の子イエスのまことの姿だ。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。「わたしは死ぬばかりに悲しい」。この言葉は、人生の中で様々な苦しみに打ちのめされていく人々の苦しみや辛酸と、主イエスのゲツセマネの祈りの苦しみとのつながりを示す。「少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください』」。この箇所には、主イエスの人としての思いがはっきり記される。言葉だけをとるならば、ホサナと叫びキリストを迎えた人々と、主イエスの祈りは同じ枠を出るものではない。それは人の思いの枠を出ないからだ。その上で「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、絶望の中に打ちのめされ、やがて朽ちていく人の思いの壁を、キリストは地べたを這いつくばり、顔を泥に埋め、そしてまた頭を天へとあげることで突破する。その眼差しはもはや世の権威を超えて、父なる神のおられる天へと向かう。ただし、弟子たちにはキリストの苦しみへの共感はない。「それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか』」。弟子たちはキリストの苦しみを意に介さず、ただまどろんでいた。これは平安にある眠りではなく、自分の目に適わない主イエスの姿への無関心さの表れだ。それはそのまま教会の態度に重ねることもできる。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。人の思いの弱さを、主イエスは知り抜いている。だから幾度もキリストは同じ祈りを献げる。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。これはわたしたち各々への執り成しの祈りだ。「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」。この無関心さに、弟子たちはバツの悪さとしての罪意識を感じたことだろう。そして教会もこの責めの意識を噛みしめるべきだ。笑い事ではない。主イエスは弟子たちを見つめて語る。「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される』」。「もうこれでいい」。主イエスは救い主として、まさにキリストがキリストとして全うしなければならない道筋を全て展望に収めた。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。弟子たちだけでなく、歴史が示すとおり教会も裏切りの列の中に加えられている。だからといって、もはや主イエスは動じない。「立て、行こう」とわたしたちに命じる。エルサレムの祭司長たちの責め立てとは異なり、主イエスはモーセの誡めを否定したがゆえに十字架への道を歩んだのではない。誡めに忠実であったからこそ、十字架への道を歩んだのだ。「律法は罪を生き返らせたがゆえに、わたしは死にました」とパウロは語る。この死を打ち破る神の愛の力が、イエス・キリストの歩みに示されている。「御心に適うことが行われますように」と、主は十字架への道を前に祈った。人の思いの限界と恐怖がもたらす壁を、キリストはこのように破られた。死への恐れは主の御心による喜びに勝ちはしない。

2018年3月18日日曜日

2018年3月18日「わたしの飲む杯があなたに飲めるか」稲山聖修牧師

2018年3月18日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「わたしの飲む杯があなたに飲めるか」
『ローマの信徒への手紙』7章4~6節
『マルコによる福音書』10章35~45節
稲山聖修牧師


 新約聖書の世界では生活スタイルの変化は急激であった。ローマ帝国が地中海を囲む世界を統一したことにより、次々と暮しが統制されたからだ。貨幣の統一、道路の統一、税の徴収の統一など限りがない。その中で物流や移動が活発になる。それは人々を旧来のしきたりから解放する反面、ローマ帝国が人々を強固に抑圧する事態を招く。その最中に主イエスは湖畔の漁師に声をかけたのであった。今日の箇所では、弟子たちの間で起きた争いが記される。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」。二人の願いはあまりにも通俗的だ。主イエスははっきり伝える。「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」。神なき上昇志向に憑依されたこの二人の弟子に、主イエスは別の道を備えようとする。それは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」との問い。
その気があれば、二人は主イエスに「それは一体どういう意味ですか」と問えたはずであった。しかし二人の返答はあまりにも軽率だ。「できます」。モーセが五回も神の召出しを断り続けたのとは対照的な姿だ。愚かな二人に主イエスは語る。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかしわたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは定められた人々に許されるのだ」。主イエスは神の支配の観点から二人にメッセージを突きつける。救い主は、神の支配が完成する終末に至るまでの間、暫定的にアブラハムの神からその役目を備えられているに過ぎず、神ご自身が世に臨むその時には、全ての権限を神に委ねる。イエス・キリストもまた、救い主の隣に誰が座るのかを明らかにはされず、沈黙する。これが神の支配の秘義である。
 ヤコブとヨハネの高ぶりから、弟子の交わりは損なわれていく。いがみ合う弟子を呼び寄せて主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかしあなたがたの間ではそうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためでなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」。主イエスが伝えた教会の秩序には、この世の秩序と画すべき一線がある。偉い人たちが権力を振るう組織で、命じられる通りに行動する者は物事を主体的に考える必要はない。転じてこれは、上の指示であれば、その内容が何であれ従っていれば問題はない。責任回避も容易にできる。いつしか人々は思考停止に陥り、私利私欲と私怨の虜となる。これは誰もが陥る機会にあふれた「凡庸な悪」と呼ぶに相応しい。この悪に気づいた者がなすべきことは、主の僕として「仕える者となる」ことだと主イエスは語る。僕の働きは、自分のためではなく、誰かのためにとの思いが前提となる。だからこそキリストは「他人は救ったのに、自分は救えない」との罵声を十字架上で浴びたのだ。主イエスが味わった杯とはこれだ。そしてキリストの死と復活の姿に現されたのが聖霊の働きだ。パウロの語る「霊に従う新しい生き方」との言葉が、マルコによる福音書では実に活きいきとした主イエスと弟子たちとの語らいに表現されている。「凡庸な悪」からの目覚めの時は近い。主に仕えるわざの尊さを知るわたしたちだからこそ。

2018年3月11日日曜日

2018年3月11日「弟子の恐れとともに」稲山聖修牧師 

2018年3月11日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「弟子の恐れとともに」
『ローマの信徒への手紙』7章1~3節
『マルコによる福音書』9章2~13節
稲山聖修牧師


今朝の福音書は、福音書そのものと旧約聖書との関わり、さらには主イエス御自身と旧約聖書との関わりを鮮やかに描く。それだけでなく、十字架にいたる主イエスの苦難の道と葬り、そして復活の出来事が暗示されている。主イエスは何の備えもない弟子たちを従えて山に登る。足を滑らせたら終わりという限界状況の中で弟子たちはキリストに黙々と従う。先の見えない道程の中、主イエス以外に希望がないからこそ、ペトロとヤコブとヨハネの間には、同じ危機をともにした者にしか授かれないつながりが生まれる。このつながりが生じる中で山上の変容が起きる。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。主イエスは「いつもの」イエスではない。主イエスは輝く白い衣を身にまとう。この様子を書き手は「どんなさらし職人の腕も及ばぬほど」と人々の暮しに関連づける。白い衣は日常着ではなかった。むしろ主イエスの葬りにあたり身体に巻きつけられた亜麻布を思い出させる。主イエスの変容は救い主の姿を公に示した復活の主の姿であり、旧約聖書にあるイスラエルの民の解放者モーセと、権力者と一人戦った預言者エリヤの二人と語り合うという、活きいきした関わりを示してもいる。  
聖書に記された悲しみの処方箋は、その悲しみを主なる神にぶつけ、そして聖書の言葉に絶えず問い尋ねることだ。聖書をいわばフィルターにし、悲しみを濾過して神の御心に適った悲しみへと変える。モーセもエリヤも人々の憎悪の矢面に立ち、悲しみを受けとめた。しかし、痛みを知らない弟子たちには、モーセとエリヤ、主イエスの交わりの意味が開かれない。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの交わりは、復活の出来事を前に怖じ惑う他ない人々の交わりでもある。そのうろたえの中、雲の中から声がしたと聖書は記す。これはモーセやエリヤの物語では主なる神がイスラエルの民に臨む表現だ。「これはわたしの愛する子、これに聴け」。この声は主イエスと読み手だけでなく弟子たちにも響く。それが誰の声であるかは分からないまま。
 この山上の出来事を、主イエスは弟子たちに「死者の中からの復活まで」隠せと語る。この語りかけによって弟子の視界にようやく復活の出来事が示される。この箇所には、神の支配の完成に伴う罪人の痛みを、キリストご自身が担ってくださるとの終末論的展望がある。
 ところで『ローマの信徒への手紙』の今朝の箇所で誡めについて語るとき、パウロは既婚した女性と寡婦を譬えに用いる。イスラエルの民の中では寡婦のほうが、一般には低い立場、憐れまれる立場に置かれていたはずだ。しかしパウロは寡婦という、先の見えない場に置かれた女性に重ねて、救い主による祝福と自由を説く。救い主が開いた恵みは、生と死の、人には越えられない限界をつつみこむ。この希望が、七年前にわたしたちに人の力の無力さと傲慢さ、そして醜悪さとともに、新たな時代の節目ともなった出来事の後を生きるわたしたちをもつつみこんでいる。先の見えない日々の中、かの大災害と関連して生命を失った人々は、主のみもとで、今なおわたしたちにいのちの尊さを伝えようとしている。その言葉をわたしたちは、聖書に記された主イエス・キリストを通して、視界を遮る密雲の中で聞こうとしている。弟子たちの恐れとともに、わたしたちは神が用いる言葉を授かり、主にある新しい展望を授かる。主がともにいてくださるなら、どのような見通しのない世界でもわたしたちは進んでいける。ときには這ってでも、ときには杖をつきながらでも。誰かのお世話になってでも。それほど力強く、主イエスが背中を押してくださるからだ。

2018年3月4日日曜日

2018年3月4日「主のしもべ・キリストに従って」稲山聖修牧師

2018年3月4日

泉北ニュータウン教会礼拝説教「主のしもべ・キリストに従って」
稲山聖修牧師
  
聖書箇所:『ローマの信徒への手紙』6章17~23節
『マルコによる福音書』2章13~17節


 誡めに携わる人々がこだわったのは汚れ・清めという判断基準。特に遠ざけられていたのは、亡骸に触れるというわざ。神に仕える者は亡骸に触れてはならず、もし触れた場合には所定の誡めにしたがってその汚れが清められるまで幕屋で神に仕えるわざを止めなければならない。こうした考え方が民の置かれた状況や聖書の文脈から離れた場合、誡めは人が利用し他者を裁く結果を招いた。旧約聖書の『民数記』で臨在の幕屋に奉仕するレビ人もその例外ではない。「善きサマリア人」の譬え話の中で祭司やレビ人は瀕死の旅人を忌まわしいものとして遠ざけるだけだった。
 今朝から礼拝で用いる聖書の文書を『創世記』から『マルコによる福音書』に変更した。それはこの福音書が、四福音書の中では最も初期に成立し、パウロとはまた違った仕方で、キリストのわざを物語としてまとめているところに理由がある。その筆は旧約聖書の民が、汚れとして遠ざけていた十字架での死と葬り、そして復活までにいたる。死を汚れとして遠ざけた人々とは対照的だ。
 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」。湖のほとりに暮らす人々。それは福音書の中では「オクロス」と呼ばれる。その時代の権力者・富裕層からは人の数には入らなかった人々だ。中でも今日の箇所で鮮やかなのは、アルファイの子レビとの関わり。祭司職に仕えるレビ人と名が同じであるにも拘らず、彼が座っているのは収税所。多くの税金がユダヤの民には課せられたが、その税には徴税人の収入も上乗せされた。また徴税人には税を取り立てた人々の情報が全て握られる。その情報はローマ帝国の支配を堅固にする。そのような職業柄から軽蔑されていた徴税人が「レビ」と名乗るのは皮肉もよいところ。けれどもだからこそ、主イエスの「わたしに従いなさい」との声が響く。収税所に留まっていたレビに新しい人生の扉が開き、風が吹く。
 実は「わたしに従いなさい」と声をかけられたのはレビ一人だけではなかった。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと、レビの家に設けられた食卓に同席していた。「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」。「実に大勢の人」。この集まりはこの時代のアウトサイダーでもある。しかし不思議なことに、アウトサイダーを遠ざけていたファリサイ派の律法学者が、次第にその群れに引き寄せられていく。人々から敬われていたはずの律法学者は、不思議にもその外におりながら、交わりに連なろうとしているのだ。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」。問いかけと主イエスへの遠回しの非難の入り混じった言葉だ。主イエスは答えるには「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。モーセの誡めには不適格とされた人々に主イエスは声をかけ、病人であると表現した。これは私たちにも向けられている。パウロは『ローマの信徒への手紙』で「かつて自分の五体の汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と記す。パウロがこのように語ることができるのは、律法学者が遠ざけた汚れの象徴としての死の意味を根底から変えてしまった救い主との出会いがある。「罪人の交わり」の中心には「裁き」という病を抱えた私たちの思惑を超えた、神の恵みの勝利がある。私たちは赦された罪人の交わりに立つ。その中心にはキリストが立ち給う。自分自身も他人をも責めなかったキリストの声を身体に響かせて、春の風吹くこの月を始めたい。