2018年2月4日日曜日

2018年2月4日「神の御前に進退を定める」 稲山聖修牧師

2018年2月4日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「神の御前に進退を定める」
『ローマの信徒への手紙』6章6~11節
『創世記』24章45節~53節
稲山聖修牧師

 ワルシャワ市民は第二次世界大戦で破壊された街を、遺された絵画に基づいて元に戻そうとする。その過程は心身の傷の癒しと結びつく。それではわたしたちの場合はどうか。再開発の名の下、無残にも切り倒された街路樹を前に茫然とする他はない。パウロの時代には「全ての道はローマに通ず」と言われるよう巨大な世界帝国が次々と交通網を整備した。その中で人々の里や暮しも変化を余儀なくされた。人々は声なき声で叫んだに違いない。「わたしたちの故郷はどこにあるのか」と。
 パウロは失われた故郷を世の完成としての神の国、そして神の国にいたる道としてのイエス・キリストに求める。「わたしたちの古い自分がキリストとともに十字架につけられたのは、罪に支配された身体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。パウロのこの言葉は、故郷と交わりが全て引き裂かれた苦しみや痛みを照らし出す。その光はこの苦しみに、キリストにあって新たにされるために伴う、希望に包まれた産みの苦しみだという新しい理解をもたらす。続く「死んだ者は罪から解放されています」との文言には、死とは「キリストと、ともなる死」であり、もはや世の悲しみや苦しみ、寂しさから解放され、新たにされるとの理解がある。それはもはや「罪の値」や「罪の結果」という否定的な意味づけではない。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストとともに生きることになると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死はもはやキリストを支配しません」。これはローマ帝国の剣さえも、キリストとともに生きるわたしたちを支配しないという、世の全てに対するキリストの勝利の凱歌でもある。
パウロは『ローマの信徒への手紙』6章では「イエス・キリスト」ではなく「キリスト・イエス」という言い方を幾度も用いる。「キリスト・イエス」には、「神は、その独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された」という『ヨハネによる福音書』3章16節の言葉にあるように、救い主がまさしく世を救うために、イエスという歴史的な人格とともにわたしたちのもとにおいでになったという驚天動地の恵みに満ちた喜びへと導く出来事を語ろうとする。『ヨハネによる福音書』の言葉を借りるならば、「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた」となる。わたしたちは、死後の世界ではなく、生きながらにして、聖書を通して、教会の交わりを通して、祈りを通して、各々の遣わされた場で、インマヌエルの主と出会っているのだ。その中で見定めるべき進退とは。
 その一つのモデルが、本日の創世記の箇所に記された、イサクの許嫁探しの旅の目的を今まさにかなえようとしている、アブラハムの老いた、無名の僕の姿だ。僕にとって重要なのは主人アブラハムの命じた務めを果たすことに尽きる。リベカとの出会いに確信を抱いた僕は、その兄ラバンに招かれた席で迫る。そして僕はリベカとの出会いにいたるまでのライフ・ストーリーを滔々と語る。この話には僕が自分の使命に全てを賭けている尋常ならざる覚悟が窺える。無名の僕曰く、「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと思います」。アブラハムの親戚筋にあたる人物の懐に、僕は飛び込んでいく。打算のない、単刀直入な道がそこにはある。わたしたちも神の懐に飛び込み、キリストを通して開かれる道を歩む者として、証しを立てる一週間を始めるのである。神が自ら備え給う故郷を目指して。