2017年10月8日日曜日

2017年10月8日「人に知られずに備えられる神の道筋」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章1~12節、創世記22章9~19節

古代ギリシアの都市国家スパルタでは肉体的な健康が何よりも尊ばれた。先天的に戦に向かない特質をもって生れたこどもは城壁の外に捨てられた。このような考えは今日も克服されていない。但し更に昔の遺跡からは、長期にわたり障がいのケアーを受けた形跡のある遺骨が発見されてもいる。今昔いずれの人の暮らしがいのちを重んじているか、あるいは進歩しているかという問いそのものが無意味になりつつある。
ではなぜ神はアブラハムに息子を献げよと命じたのだろうか。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものはどこにありますか」と父に問うイサク。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える父親。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」。父が自分の一人息子を人身御供として神に献げるという実に不条理な場面。実はこのような箇所にこそ、創世記ならではのメッセージが隠されている。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』。」。 
神はアブラハムの信仰を弄んだのではない。天地創造の神は、御自身に模って創造された人間に「エデンの園の中心にある木の実は食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と語る。「死ぬな」と人に語る神ならば、イサクを人身御供として奪うことはない。さらにイサクの奉献の仕方である「焼き尽くす献げもの」が持つ意味は、本来は神への感謝のしるしとして行われ、喜びをもたらす。イサクが献げられたところで誰が喜ぶだろうか。肝心なのはアブラハムが神以外の何者も命じることのできない命令に応え、それを気持ちの問題ではなく、黙々と態度に示した現場を神は見ていたところだ。神の隠された愛に応じる証しがそこにある。
私たちはアブラハムがイサクを受けとり直したその喜びを、イエス・キリストとの関わりの中で自己点検できているだろうか。『ローマの信徒への手紙』4章でパウロが用いる言葉に「行いによらず」という文言が再三登場するが、それは信仰を字面だけ辿ればよいと語っているわけではない。喜びを伴っているのかどうかが問われる。神の恵みに応じる喜びは、異邦人もユダヤ人も問わないばかりか、先達への敬意を伴いながら、絶えず伝統を乗り越えていく型破りな創造性をも生み出す。証しにも多様性がある。黙々と薪を割るだけでも、病床にあって呻くように祈るだけでも、そこに喜びを待ち望む希望があるならば、備えられた神の道筋がある。
神が備えた信仰の道は、時に隠されている。真っ直ぐな道ばかりではない。その道はあらゆる世界に、あらゆる交わりに開かれているとパウロは語り、それは主イエスの自由で伸びやかな歩みに重ねられる。一人子すら惜しまなかった神の愛を、私たちはそのように受けとめたい。