2017年10月22日日曜日

2017年10月22日「見知らぬ人の厚意への切なる感謝」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章18~25節、創世記23章10~22節

 科学の道で最先端を行く人は人智を越えた力を感じずにはおれないという。今日の聖書箇所に記されるヘトの人々も常日頃からその意識が強かったと考えられる。この人々は宇宙から飛来した隕鉄を精錬し人類史上初めて鉄器を用いたとされる。今日の箇所から察するに、その目的はより強度のある農具の製造にある。農具は日常品だけに後世には残らない。けれども鉄の農具は農耕の民にはかけがえのない財産だ。ヘトの人々は畏れとともに夜空を仰ぎ、アブラハムと思いをともにしたかも知れない。
 ヘト人エフロンは衆目の前でアブラハムに答える。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴(ほらあな)も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速亡くなられた方を葬ってください」。アブラハムの依頼そのものは唐突であっても、死という出来事を受け入れる心備えは人々には日常であった。「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」。この時代に鉄は銀よりも貴重なレアメタルだ。アブラハムが当時はなかった貨幣の代わりに銀の塊を準備する。エフロンは銀で畑を売ろうと思っていない。その銀は何よりも土地売買のためにではなく感謝のしるしである。このしるしにより、アブラハムは堂々とサラの墓地を建て、ヘトの人々は一同そろってアブラハムの誠意に応えて畑を献げることができる。畑を開墾するにかかる手間は想像を絶する。たとえ銀塊でもその汗を量ることはできない。この深い交わりの中で、サラの墓地が建てられる。今やサラの墓はヘトの人々とアブラハム一族のかけがえのない絆の証しともなる。
 しかし時が移ろう中、この絆がほころび、破られるさまを私たちは目撃する。アブラハムの時代よりもはるか後のダビデ王の振る舞いがそれだ。王の権威を私物化し、ダビデが手をかけるのはバト・シェバ。その夫はダビデの忠実な家臣であり、エフロンの末裔ヘト人ウリヤ。ヘブライ人の倣いと戒めによれば、これは明らかにモーセの戒めの違反。醜聞が表沙汰になる前にダビデは策を弄して忠臣を謀殺し隠蔽しようとする。その様を聖書は「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記す。神はヘト人ウリヤの側に立つ。そして権力に翻弄される女性の側に立つ。主なる神はダビデの過ちだけでなく、汗水垂らして耕した畑をアブラハムに献げたエフロンの働きを決して忘れてはいない。だからこそ事実として是は是、非は非というわざを、ダビデを始めイスラエルの民に下すのだ。しかしそのわざはイスラエルの民を一重に滅ぼすためであったのか。
その問いを噛みしめながら『ローマの信徒への手紙』を味わえば、実のところ神が何を見ておられ、何をされ、関心を置かれるのかが分る。アブラハムにはダビデのように私物化しようにも私物化できる権力などなかった。アブラハムは家族や近親者の部族を守らなければとの責任、目の前に広がる荒れ野で行く道を見極める判断、そして多くの係争がありながらも一人息子のイサクをサラとの間に授かっただけだ。パウロはサラとの関わりを踏まえて、アブラハムには神から賜わる垂直の力によって諸力の源が備えられていたと記す。私たちに欠けているのはこの垂直の視点なのだ。神の交わりへの招き・人々の間にある垣根を越えていく力は、神のわざへの感謝として、イエス・キリストを通してすでに備えられている。「見知らぬ人への厚意」に頭を垂れたアブラハムの謙遜さ。イスラエルと異邦人の和解、隣人との和解と赦しという宝がそこに秘められている。