2017年10月15日日曜日

2017年10月15日「いのちの根を下ろす」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13~17節、創世記23章1~9節

アブラハム物語を辿るとき、サラの生涯が注目されるのは稀だ。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。サラに寄せたアブラハムの悲嘆の記事はこの箇所のみ。だからこそこの悲嘆には言葉にできない思いが凝縮される。サラは名を改める前から奇異な存在であった。「サライは赴任の女で、こどもができなかった」と、必要もないのにわざわざ系図に記される通りだ。ハランの町でアブラハムは神の招きを受けたが、エジプトに入ればサラはアブラハムの保身のためにファラオの側女にさせられる。その後なおも正妻ながらこどもを授からない苦しみを味わい続け、女奴隷ハガルをアブラハムのもとに遣わすが、その後ハガルに覚えたのは喜びよりも妬みであった。御使いたちにイサク誕生の予告を受けたときも、老いたサラには自嘲するより他に道がない。その乾いた笑いがイサク誕生による喜びに包まれた後、ハガルの息子イシュマエルとの確執に襲われる。この物語では母親としてイサクを護ろうとする鬼のような姿が露わになる。イサク奉献の物語には母としてのサラの影は薄く、その出来事が終わるや、サラは静かに生涯を終える。
 それでは問う。サラは幸せな人生を辿れたのだろうか。アブラハム以上に身を挺して神の祝福に応えようと苦闘せざるを得なかったのがサラの生涯だった。それを誰より知っていたのがアブラハムであり、だからこそアブラハムは胸を打ち、嘆き、一般の遊牧民とは異なるわざにとりかかる。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」。アブラハムの振る舞いはサラへの哀惜の念を際立たせ、時を超えた共感をもたらす。さらにはサラの葬りの申し出が、ヘトの人々との交わりを生み出す。サラの逝去と葬りのわざはヘトの人々にも悼みを分かち合うこととなり、異邦人との交わりの種がまかれる。サラの墓前に、いのちの根を下ろした、そして民の壁を越えた交わりが生れる。
 『ローマの信徒への手紙』4章13節には「神がアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」とある。16節でパウロは「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」と記す。私たちは聖書に書き記された物語を通して、聖書がそれとしては記されなかった世のアブラハムとサラの歴史を知る。聖書が信仰に不可欠なのは、かの時代の人々を包み込んだ神の恵みの力に思いを馳せ、その歴史を暮らしに刻むためだ。この力は次の言葉に収斂される。「死者にいのちを与え、存在してない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となった」。この箇所にはイエス・キリストの復活を通して私たちに示された神の愛の力が示されている。イエス・キリストの甦りは、イスラエルの民とならび異邦人である私たちにも、いのちの勝利をもたらした。サラもその例外ではない。救い主が私たちの間に命の根を下してくださった出来事。深く感謝したい。