2017年9月17日日曜日

2017年9月17日「神の忍耐がもたらした恵みと知恵」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節、創世記21章9~18節

 本日の旧約聖書の箇所では、アブラハムが神から授けられた知恵によってどのように道を開き、そして神自らがハガルの前途に橋を架けたかを知る箇所。サラがイサクを授かったことにより、ハガルとイシュマエルの立場は脅かされる。イシュマエルとイサクとの無邪気な遊びでさえサラには悩みの種だ。ささいなこどものやりとりでさえ、サラには族長継承の問題を左右する出来事に映る。「あの女とあの子を追い出せ。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではない」。ハガルをアブラハムに与えたのにも関わらず、正妻サラのエゴが剝き出しになる。問題はもはや話し合いで解決する域を超えていた。苦しみ悩むアブラハムは神から「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」との言葉を授かる。アブラハムは自ら担う苦しみ悩みや思い煩いを全て神に委ねる。 この委ねにより、アブラハムはハガルやイシュマエルを手にかけるという、最悪の状況を避けることができた。「生きるに値しないいのち」などどこにもない。
その結果、ハガルはベエル・シェバの荒れ野をさまよい、皮袋の水がなくなると、彼女はこどもを一本の灌木の下に寝かせ「わたしは死ぬのを見るのは忍びない」と矢の届くほど離れ、弱り果てたイシュマエルを向いて座り、声を上げて泣く。この無力さの中で神の御使いはハガルに呼びかける。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕しっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。またもや「神は聞いた」というイシュマエルの名前の真意が再び確かめられ、アブラハムから出た人々としてその名が刻まれる。この物語をパウロもまたその父と母から繰り返し聴き、その中でイエス・キリストが救い主であるとの確信を得た。
 今朝の新約聖書では「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者に立証されて、神の義が示されました」とある。パウロのいう「律法」とは、613にわたるユダヤ教の誡めではなくて、かつてモーセ五書と呼ばれた、旧約聖書の最初の文書である『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』の五冊を示す。ユダヤ教で言う『トーラー』だ。この中には勿論ハガルとイシュマエルの物語も収められる。続く「預言者」も個々の預言者を指すのではなく、この預言者の物語を収めた『ネビイーム』を示す。つまり『トーラー』と『ネビイーム』という、パウロの時代の聖書が示されているのである。アブラハムの時代には勿論、このような書物は一切ない。『トーラー』『ネビイーム』の文言の頑なな墨守は救いの前提にはならない。けれども『トーラー』と『ネビイーム』が証しする通り、神の義が示されたのである。それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」である。
 高度経済成長期には深い闇も伴っていた事実を私たちは知っている。障がい者への風当たりは今よりも厳しく、孤児院に暮らすこどもたちへの社会の目は冷たかった。ショービジネスの世界に活路を見出した人々の中には、日本国籍を持たない人もいた。父母の国籍が異なる家のこどもは「合いの子」と蔑まれもした。そのなかで行政に先んじてさまざまな福祉分野や教育の場を設け、世にある垣根を突破する交わりを育み、その受け皿となったのは教会だった。本日は長寿感謝の日礼拝。齢80歳を数える兄弟姉妹のあゆみを通して証しされた神の恵みに感謝する日。激動の世にある教会の開拓期に携わったのが長寿を迎えられた兄弟姉妹である。私たちはこの事実を感謝の念とともに神の御前に立ちつつ、深く心に刻むのである。

2017年9月10日日曜日

2017年9月10日「役に立たない者だからこそ神の恵みの器となる」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9~22節、創世記21章1~8節

「津久井やまゆり園」で19人の知的障がいとの特性をもつ方々が殺害され、26人が重軽傷を受けた事件から一年余り。容疑者が同年2月、衆議院議長に犯行予告をしたのにも拘わらず政府は「やまゆり園」の警護を怠った。政治家に対する殺害予告とは異なる判断基準が機能したと考えずにはおれない。無自覚の全体主義。選別と排除。20世紀の負の歴史でもあるナチズムの特質は極端な成果主義にある。福祉政策が経済政策の邪魔になると見たナチは、障がい者の例外のない安楽死政策を打出すことで多くの国民の支持を得た。「生きるに値しないいのち」を人が定める恐ろしさと、神への冒涜がある。
本日の旧約聖書ではアブラハムの伴侶サラにいのちが授かり、わが子に「イサク(笑い)」と名づける場面が描かれる。族長物語の中でも喜び溢れる場面ではあるが、私たちはサラが不妊であるがゆえに味わった惨めさを忘れられない。子宝に恵まれるという神の祝福が人の世の成果主義と混同されているとの見方も可能だ。族長物語の世界にあっても「役立つかどうか」との世の尺度の問題は克服されていないのではないか。
一方福音書では、主イエスがこの荒んだ尺度を軽々と飛び越える場面が窺える。例えば『マルコによる福音書』の5章に記された、長血を患う女性。12年間出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても具合は悪くなる一方。とても子を授かるような身体ではない。彼女は社会から切り離され、治療の名のもとに搾取の対象にすらなり、経済的に追い詰められる状態が日常化している。この名もない女性が福音書で描かれる理由には、この苦しみの中でこそ味わえなかったイエス・キリストとの出会いと慰めが語り継がれなければならないという福音書記者と教会の決断があった。イエス・キリストとの関わりを軸にすることで、生き方の多様性が、ギスギスした功利主義から解放されて神さまからの恵みの器として受け入れられる。その根拠を人間の願望ではなく、神と人との救いの約束だからと聖書は書き記す。
パウロは『ローマの信徒への手紙』で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と読者に問い、そして答える。「全くありません」。なぜなら、「ユダヤ人もギリシア人もみな、罪の下にあるから」。「罪」を意味するギリシア語「ハマルティア」には、人は誰かの助けなしには必ず的外れなわざ、的外れな態度、的外れな理解に及ぶという幅の広さがある。自分の判断には狂いはないという一念は時として深く心を傷つける。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」。パウロは自分も含めて記す。そしてこの道筋を貫いて、パウロはユダヤ教徒とそれ以外の者である異邦人の垣根を取り払う。歪んだ選民思想はそこにはない。
聖書の言葉を問い訪ねていく中で、私たちは「役立つかどうか」という尺度だけで人を見るその愚かさに気づかされる。また「役立つかどうか」との考えで傷つけられた人が、実は神の栄光を現わしていたことに深く頭を下げざるを得ない。己の痛みを誰よりも知る者を、主イエス・キリストは涙と微笑みをもって癒し給う。だからこそ私たちは、キリストが教会の頭であり交わりの基であると確信する。かくして世が荒むほどに、教会に連なる交わりは世の光として輝きを増すのである。

2017年9月3日日曜日

2017年9月3日「はかりごとを打ち砕く神の恵み」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章1~8節、創世記19章36~38節
 
非常事態に事柄の真価が問われる。ロトはそのソドムへの神の審判を前にしてツォアル(小さい)との名の町に急ぐ中、ロトの伴侶は後ろを振り向く。神の避難指示を冗談であると聞き流した婿たちも硫黄の火に包まれた。この非常事態の中でツォアルに入らず洞窟に暮らすこととなったロトとその娘は、心に深手を負っただろう。そのさまは30節~35節に記される愚かな、まことに愚かな振る舞いとして露わにされる。その結果、二人の娘にはモアブとアンモンというこどもを授かる。イスラエルの誡めが適応されるなら間違いなく石打刑だ。確かにアンモンは、この後、ダビデ王の時代にいたるまでイスラエルの民を苛む異邦人となる。モアブ人はアンモン同様イスラエルを苛みながらも、やがてダビデの祖先ルツに繋がる系譜に数えられ、主イエスの父ヨセフまでの流れに立つ子として覚えられていく。大人がどれほど堕落しようと、授かる子どもには決して罪はない。子どもたちには罪はない。もし人の思い、すなわち「はかりごと」によって救い主の訪れが実現するならば、この子たちはイスラエルの歴史から排除されていたに相違ない。キリストなしに救いがないのは、他ならないイスラエルの民であり、アブラハムの一族もまた例外ではない。
 この記事を前提しながら「ユダヤ人の優れた点は何か」「割礼の利益とは何か」と問いかけつつパウロは語る。第一に、ユダヤ人は神の言葉を委ねられたという事実がある。次に彼らの中で不実な者がいても神の誠実さは無にされない。ソドムの街にアブラハムの神は救いの言葉を投げかけ続けた。「人は全て偽りもの」でありながらも「神は真実である」。だからこそ神の真実は人の偽りに勝り、時に神の恵みは人の目には怒りと映る場合もある。だからこそ「善が生じるために悪をしよう」との考えを罰せられないはずがないとパウロは語る。
「善が生じるために悪をしよう」との言葉は、現代の私たちの心の中にも深く入り込んでいる。例えば「必要悪」との言葉。何かを犠牲にして生き残った者が思考を停止する言い訳によく用いられる。あるいは「目的は手段を正当化する」との言葉。かつては暴力革命を正当化するため、今は医療や福祉、東日本・九州・北海道の被災地を無視した経済発展を正当化するために用いられる。
私たちは目的と手段を転倒させてはならない。神の恵みを輝かせるためには、誰一人犠牲にされてはならない。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1節~2節で語る。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。注目すべきは続く2節での言葉「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」である。
もし東日本大震災の直後、全国の諸教会が「この世に倣い」、ロトのようにためらっていたとしたら、教会も保育園も保護者もこどもたちも取り返しのつかない、深い傷を負っただろう。地震・津波・水害・原発事故。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。この言葉を私たちは9月を始めるにあたり噛みしめていきたいと切に願う。世にはびこる人の「はかりごと」を打ち砕かれるために、自らを十字架で犠牲にされた主イエス・キリストは、自らの栄光を世に現す。その時を待ち望みながら新しい月に歩みを踏み出そう。