2017年7月9日日曜日

2017年7月9日「神から託された、果たすべき責任」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記13章1~13節、ローマの信徒への手紙1章8~15節

アブラムは親族間の争いにあって乾坤一擲の手を打つ。それはロトに和解の提言を族長自ら行い、族長の権利である部族の進む道を選ぶ決断もロトに委任する。争いは貧しさからだけでなく過剰な豊かさからも生まれる。しかもそれは豊かさでは克服できない質の悪いものである。神に選ばれたアブラムはその問題を見抜いていた。その結果、ロトは肥沃なヨルダン川の低地一帯を選び、アブラムはロトの進む先に比べれば荒れ地の多いカナン地方に進んだ。ロトの選んだ豊かな土地は多くの罪に溢れていたというから、その判断は浅はかだったのかも知れない。
ところで『ローマの信徒への手紙』が執筆された頃の教会には福音書も何もない。有名な使徒だけではなく、名もない多くの伝道者たちがイエス・キリストの教えを伝えている。文字通り散らされているような具合ではあるが、一見すればバラバラな集いの間に網の目状の交わりがもたられる。神が備えたもう、交わりのネットワークがあるからこそ、パウロは神への感謝を書き記す。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に伝えられているからです」。族長物語の上を行く広がりが記される。「全世界」と訳される「コスモス」とは秩序づけられた宇宙全体をも示す言葉。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が明かししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。パウロは実に情熱的にローマ訪問の願いを語る。この願いは実際にはローマへの護送で実現する。けれどもそれはパウロには喜びだ。なぜパウロはローマへの訪問を、我が身の安全に代えてでも望むのか。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」。この責任は誰から託されたものなのか。それはアブラムに働きかけたのと同じ神。そしてアブラムの世には現れてはいない救い主・イエス・キリストによる。「ギリシア人にも未開の人にも」。聡明なギリシア人とは異なり、一方で未開の人々とはその時代では「バルバロイ」(言葉の乱れた人々)と蔑まれた、さまざまな迷信に囚われ、文字すら知ることのなかった、おそらくは地中海を囲む地域の先住民族であろう。一口に異邦人と称しても実態は分断と諍いがそこかしこにある。その後には続くのは「知恵のある人にもない人にも」。「知恵のない人」とは英語ではfoolishとなる。単に知恵がないだけでなくて、品がなく、善悪の判断基準やタイミングを見極める力、あるいは事柄の重さ軽さの見極めが立たない愚かな人々。パウロの目指した異邦人伝道で出会う人々には、愚かさをもとに分断されがちな人々が大勢いた。けれどもパウロは特定の相手にだけ責任があるとは言わない。なぜならこの全ての人々には、物理的・文化的にはどれほど距離や反目があろうとも、イエス・キリストに示された和解と交わりが成り立っているからだ。
この世の交わりにあって肩を落とすことがあっても、神さまから託された責任に私たちは背中を押されている。この責任は裏を返せば、主イエスにあって備えられた聖霊の追い風である。だから私たちは、往生際悪く、神の愚かさに徹することができる。『ローマの信徒への手紙』に前後して記された『コリントの信徒への手紙Ⅰ』には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とある。族長アブラムは浅はかなロトを決して見捨てずにいのちを救うべく力を尽くした。イエス・キリストにあって与えられる聖霊は実に力強く、不撓不屈の力となってくださる。臆せず新たな課題に常に挑む者でありたい。