2017年7月30日日曜日

2017年7月30日「神の前で日毎の態度を確かめる私たち」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記18章1~15節、ローマの信徒への手紙1章25~32節

 「旅人をもてなしなさい」とは旧・新約聖書だけでなく、ムスリムの教えにも通じる考えだ。贅沢は必要ではないながらも、ただ一度きりの出会いのために開かれた心根をもってアブラハムは迎え入れる。「では、お言葉どおりにしましょう」との返事を受けて、三人の旅人に身をやつした御使いに、天幕に戻ったアブラハムは食事を振舞う。しかし問題は、この一連の物語の中で、サラはどのような表情をし、そしてどのような思いをしていたのか。サライは天幕の中にいる。三人はアブラハムの伴侶について尋ねる。「あなたの妻サラはどこにいますか」。御使いの一人は語る。「わたしは来年の今ごろ、必ずまたここに来ますが、そのころには、あなたの妻のサラにはこども生まれているでしょう」。サラは天幕の布越しに耳を傾けながらひそかに笑う。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるわけでもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。乾いた、悲しみに満ちた笑い。自らをあざ笑う笑い。涙も枯れ果てたとしか言いようのない笑い。神の約束すら虚しく響くとき、ため息とともに内向きの笑いをサラは浮かべざるを得なかった。
 教会に連なりながらもこの悲しみに呑まれた人の姿が今朝の新約聖書の箇所で描かれている。本日の箇所の鍵となるのは1章28節。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。神を認められなくなった悲しいありようをパウロは語る。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です」。これらの営みに取りつかれた人々が教会にいたのだ。このようなわざもまた、人の営みとして初代教会と決して無関係ではなかった。内向きで互いの足を引っ張り合うような交わりも、教会とは無縁ではなかったからこそ、このようにパウロは諫めようした。
 サラは、このような悲しい振る舞いの一歩手前に立っていた。己をあざ笑うことは、己に連なる者、支えてくれた者をあざ笑うことであり、ひいては神をもあざ笑うことだからだ。だから御使いを通して、主はアブラハムに言う。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。内容は極めて具体的で、終末論的な響きを伴う。この断言にサライは恐ろしくなり、前言撤回を試みる。「サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『わたしは笑いませんでした。』」恐怖のあまりの虚偽答弁。しかし御使いは断言する。「いや、あなたは確かに笑った」。この恐れに満ちたやりとりの中で、サライの悲しい薄ら笑いが、主の定められた時には喜びの笑いへと変えられる。イサクとは「笑い」を意味する。神の約束への喜びと、神自らとの交わりが回復する。サラがアブラハムとの間に授かった子はイサク唯一人だが、この幼子が、老いたサラの将来を拓く。
 神なきモラルハザードが世に満ちるならば、私たちには神の前での日毎の態度を、あたかも鏡を見るかのように交わりと礼拝で確かめるわざが求められる。愚かな振る舞いに及ぶ私たちが、すでにイエス・キリストの恵みに受け入れられているとの出来事の確認。失意のサライに希望が与えられ、混乱する教会に神の祝福と未来が備えられる。世が闇に包まれるほどに、私たちは世の光として神様に用いられるからだ。

2017年7月23日日曜日

2017年7月23日「二人の主人に仕えられないわたしたち」稲山聖修牧師

聖書箇所:『創世記』18章20~33節、ローマの信徒への手紙1章18~24節

 高度経済成長期、飢えの記憶を忘れようとするかのように日本は戦後の復興を急いだ。他方で教会は別の尺度を掲げてきた。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)。かの時代に教会には多くの女性・こどもたち・社会が求めるのとは異なる特性をもつ人々が集まり「人はパンだけで生きるのではない」との言葉を味わった。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」との言葉で「富」と訳されるのは「経済的な豊かさ」というよりも「富を司る偶像・マモーンの神」。マモーンにひれ伏して幸せになれるとの考えが新約聖書の記された時代にはあった。
 旧約聖書にある族長アブラムと甥のロトと物語。豊かになった争いを調停するために、アブラムとロトは別の道を行く。ロトが選んだのは見渡す限り潤っていたヨルダン川流域の低地一帯の都市国家ソドム。
 ソドムは豊かさが却って災いし、ヨルダン川流域の都市国家同士の略奪戦争に絶えず晒される。人心も荒廃し、人々は刹那的な享楽の虜となる。まさに「神ではなく、マモーンにひれ伏す町」。宇宙万物の創造主であるアブラハムの神はどのように向き合ったのか。
 「主はいわれた。ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降っていき、彼らの行跡が、果たして私に届いた叫びの通りかどうかを見て確かめよう」。宇宙万物の創造主はソドムを直ちに裁くこともできたはずだ。けれども神が完全であるほど、軽々しくその裁きのわざを振るわない。神は暴君ではない。自然災害や天変地異も神の裁きであると理解された時代、アブラハムは根本的な問いを発する。アブラハムはソドムにマモーンを拝む者がいたとしても、正しい者がいたとするならどうするのか、神に仕える者がいたとするならばどうするのかと迫る。繰り返される問答の中、10人しか正しい者がいなかったならと問い、主なる神は「その10人のために私は滅ぼさない」と応じる。
 『ローマの信徒への手紙』の今朝の箇所では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。なぜなら、神について知り得る事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地はありません」と厳しくパウロが神の審判について語るとき、私たちはこの手紙がローマのキリスト教徒に向けられており、神との関わりに開かれてなおも、どっちつかずの態度に揺れ動いている者がいるのを前提にしている。なぜこのような諫めをパウロは語るのか。「そこで神は、彼らの心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」。人の身体を、神の御霊の宿る神殿としてパウロは理解する。マモーンとの関わりの中で神殿を汚すのは、神の冒涜に留まらず、人の在り方や教会の交わりを歪めることをパウロは知っていた。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。神の賜物としての富に関わるならば、それは神に仕えるため、証しするためのもの。私たちはもはや二人の主人には仕えられない。だから安心して誘惑に満ちた世に漕ぎ出そう。「われらを試みに遭わせず悪より救い出し給え」との祈りはすでに聞かれている。

2017年7月16日日曜日

2017年7月16日「わたしは福音を恥とはしない」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記16章1~14節、ローマの信徒への手紙1章16~17節

私たちが公には語りづらい物語を旧約聖書は堂々と書き記す。旧・新約聖書の物語を一貫するのは天地の造り主である神であり、その神が世に遣わした救い主が軸となる点。だから聖書は時に私たちの道徳観を突き破るように、理想化された人間像をたたき壊すようなドラマすら描く。
今朝のアブラムとサライ、そしてハガルの物語もそのひとつかもしれない。族長アブラムへの祝福の約束にも拘わらず妻のサライは不妊の女性とされた。神の約束の成就の道筋は秘義に属する場合もある。そして人はその成就を待ちきれずにあらぬ行いへと及ぶ。サライはハガルというエジプトで得た女奴隷をアブラムに遣わす。これはハガルにもサライにも辛い判断だ。「主はわたしに子供を授けてはくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかも知れません」。このサライの思いつめた申し出は、アブラムがカナン地方に住んでから十年後であった。人生が今よりも儚い時代の十年。どれほど長く辛かったことか。
しかしこの憂いを意に介さずハガルはいのちを授かる。世継ぎを授かったことは喜びではあるが、サライにはわが子ではない。張り裂けんばかりの思いは、まずは夫のアブラムに向けられる。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身籠ったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」。この言葉には、ある鍵が隠されている。サライが思いの丈をぶつけるのは夫のアブラムだ。次いでサライは「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」と叫ぶ。サライは側女ハガルに直接思いをぶつけはしない。裁くのは人ではなく、主なる神。思い乱れてもサライはこの一点を外さない。アブラムの答えは「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい」。アブラムが正妻と側女の問題に立ち入ることになれば、問題は余計に複雑になる。アブラムは黙することで問題の源は私にあると語る。
その後サライはハガルを虐める。サライのもとから逃げるハガルは、未来に開かれた主の御使いとの出会いを経る。御使いが問うには「サライの女奴隷ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとするのか」。「女主人サライのもとから逃げているところです」とハガルが答えると、御使いは女主人のもとに戻れと命じた後に「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と約束する。これはかつて主なる神がアブラムに交わした祝福の約束と内容上同一のものだ。神の祝福の前には性差や階級のような一切の生活状況が問われない。続いて身籠ったいのちの名前が刻まれる。「イシュマー・エル」。「エル」とは神を意味する。「イシュマー」とは聞く、あるいは聞いた、を意味するヘブライ語。神がこのとき何を聞いたのか。最も運命に翻弄された、女奴隷ハガルの苦しみであり悩み。旧約聖書の神は最も虐げられた者の悩み、苦しみ、悲しみに耳を塞ぐことなく、そして何らかのわざを行わずにはおれない。それが新しいいのちの名前となる。
この物語をイエス・キリストは幼い時から味わった。そして使徒パウロもこの物語を踏まえ、次のように書き記す。「わたしは福音を恥とはしない」。要となる言葉は「恥」。「私は福音を恥とはしない、それは信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」。パウロは様々な辱めを身に負ったが、それを全て十字架のキリストの苦しみに重ねた。ハガルが受けた辱めと悩み。神の力は他者には語りきれない痛みを通しても私たちの身に及ぶ。この痛みを祈りのうちに分かち合える交わりは、キリストを中心に広がるのだ。

2017年7月9日日曜日

2017年7月9日「神から託された、果たすべき責任」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記13章1~13節、ローマの信徒への手紙1章8~15節

アブラムは親族間の争いにあって乾坤一擲の手を打つ。それはロトに和解の提言を族長自ら行い、族長の権利である部族の進む道を選ぶ決断もロトに委任する。争いは貧しさからだけでなく過剰な豊かさからも生まれる。しかもそれは豊かさでは克服できない質の悪いものである。神に選ばれたアブラムはその問題を見抜いていた。その結果、ロトは肥沃なヨルダン川の低地一帯を選び、アブラムはロトの進む先に比べれば荒れ地の多いカナン地方に進んだ。ロトの選んだ豊かな土地は多くの罪に溢れていたというから、その判断は浅はかだったのかも知れない。
ところで『ローマの信徒への手紙』が執筆された頃の教会には福音書も何もない。有名な使徒だけではなく、名もない多くの伝道者たちがイエス・キリストの教えを伝えている。文字通り散らされているような具合ではあるが、一見すればバラバラな集いの間に網の目状の交わりがもたられる。神が備えたもう、交わりのネットワークがあるからこそ、パウロは神への感謝を書き記す。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に伝えられているからです」。族長物語の上を行く広がりが記される。「全世界」と訳される「コスモス」とは秩序づけられた宇宙全体をも示す言葉。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が明かししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。パウロは実に情熱的にローマ訪問の願いを語る。この願いは実際にはローマへの護送で実現する。けれどもそれはパウロには喜びだ。なぜパウロはローマへの訪問を、我が身の安全に代えてでも望むのか。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」。この責任は誰から託されたものなのか。それはアブラムに働きかけたのと同じ神。そしてアブラムの世には現れてはいない救い主・イエス・キリストによる。「ギリシア人にも未開の人にも」。聡明なギリシア人とは異なり、一方で未開の人々とはその時代では「バルバロイ」(言葉の乱れた人々)と蔑まれた、さまざまな迷信に囚われ、文字すら知ることのなかった、おそらくは地中海を囲む地域の先住民族であろう。一口に異邦人と称しても実態は分断と諍いがそこかしこにある。その後には続くのは「知恵のある人にもない人にも」。「知恵のない人」とは英語ではfoolishとなる。単に知恵がないだけでなくて、品がなく、善悪の判断基準やタイミングを見極める力、あるいは事柄の重さ軽さの見極めが立たない愚かな人々。パウロの目指した異邦人伝道で出会う人々には、愚かさをもとに分断されがちな人々が大勢いた。けれどもパウロは特定の相手にだけ責任があるとは言わない。なぜならこの全ての人々には、物理的・文化的にはどれほど距離や反目があろうとも、イエス・キリストに示された和解と交わりが成り立っているからだ。
この世の交わりにあって肩を落とすことがあっても、神さまから託された責任に私たちは背中を押されている。この責任は裏を返せば、主イエスにあって備えられた聖霊の追い風である。だから私たちは、往生際悪く、神の愚かさに徹することができる。『ローマの信徒への手紙』に前後して記された『コリントの信徒への手紙Ⅰ』には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とある。族長アブラムは浅はかなロトを決して見捨てずにいのちを救うべく力を尽くした。イエス・キリストにあって与えられる聖霊は実に力強く、不撓不屈の力となってくださる。臆せず新たな課題に常に挑む者でありたい。

2017年7月2日日曜日

2017年7月2日「神の恵みの選びは全てを包む」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記11章31~12章4節、ローマの信徒への手紙1章1~7節
 
「神の選び」との言葉は様々な誤解を重ねられた。この言葉が語る者や教会組織そのものの自己礼賛に用いられるならば、知らずしらず教会は深い堀や壁をめぐらし、他者に仕える力を失う。聖書のメッセージは、その壁を破り、誰かとの関わりを想起させ、感謝すべき関わりに目覚めさせ、私たちを謙遜に導く。
 創世記の12章には、信仰の父と仰がれるアブラハムが「アブラム」として登場する。その名が現れるのが、11章のノアの息子セムの系図、そしてアブラムの父であるテラに始まる系図だ。ところで、信仰の父と仰がれるのはアブラムであるにも拘らず、その父テラから物語が始まるのは何故か。
 実はアブラムにもまた、当人の自覚としては神の招きを受ける前の時期があった。同時に、神自らはアブラムを招きに応じる前からその祖先の時代から知っていた。なぜならば、旧約聖書に記される神は、宇宙・万物の創造主でもあるからだ。その中で描かれるアブラムの父テラ。創世記の11章31節では、「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二〇五年の生涯を終えて、ハランで死んだ」とある。都市国家ウルにまず注目したい。
 都市国家ウルは実はチグリス・ユーフラテス川流域でも繁栄を極めた。その土地で農業を営むには灌漑農法が必要だった。その結果、一時期には一粒の麦から76,1倍もの収穫が得られるまでになる。但し水が蒸発する場合、土の中に含まれる塩が引き出される。この塩害によって麦の栽培が困難になり、国力を失ったウルは滅亡する。テラの旅の始まりはこの出来事と決して無関係ではなかったことだろう。かりそめの安定から身を起こし立ち上がり、羊などを追いながら旅を続けるという厳しい生活環境に身を投じる道を踏み出したのがアブラムの父テラ。テラ自らは神の招きを自覚することもなくハランの地で生涯を終えた。彼はアブラムが宇宙・万物の主なる神に出会う道筋を整えた点では重大な役割を成し遂げた異邦人であり、アブラムとの関わりの中で神に祝福されていた。
 この話に立つと、仮に私たちが、家族の中で一人教会に足を運ぶという身にあったとしても、あるいは人には話すのが困難な事情を抱えながらこの場に集い得たという身にあったとしても、聖書に記され、アブラハムを選んだ神の愛は、その方をも包んでおられるとの理解が拓かれる。他に選びようのない道を歩む人に先立って困難な道を開拓してくださるのが、主イエスがメシアとして証しし、パウロが繰り返し噛みしめた神の恵みの選びの出来事である。
 『ローマの信徒への手紙』冒頭には、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選びだされ、召されて使徒となったパウロから」とある。救い主はただ一人、まことの人の姿となったイエスである。そして「神の福音のために選びだされ」と続く。パウロ最大の関心事は、「わたしたちの主イエス・キリスト」にある。そしてこのメッセージは、その時代としては、直接にはこれは、パウロの導いた教会のあったシリアからも、歴史的にイエスのわざを知っていた使徒の拠点であったエルサレムからも遠いローマに向けられている。その一方で、時を超えてこの場に集う私たちにもまた向けられている。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。このパウロの挨拶は、私たちを全て神の恵みの選びの出来事の中に包み込むのだ。