2017年6月25日日曜日

2017年6月25日「祝福された最後の働き」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録28章23~31節

 トルソーという彫刻の類型。完全体ではなく腕や頭部を欠損した作品を意味する。しかしそのような欠けがあるからこそ、ダイナミックな動きに思いを馳せることができる。
 パウロの伝道も様々な欠けに満ちていた。パウロは元来ユダヤ教ファリサイ派の律法学者で教会を迫害していた。また異邦人伝道はエルサレムの使徒から警戒されていた。そのような傍流のパウロがなぜ今日に至るまで一定の名を留め、その書物がルターやバルトの目覚めに繋がったのか。パウロは一貫して世界伝道者であった。多くの言語に通じ、ローマ帝国の市民権があり、そして旧約聖書の解釈に通じていた。一切の名声を投げ打ち傍流に留まったパウロだからこそ異邦人からの支えは思わぬ所から訪れた。遺された多くの文書との対話を経て今日の新約聖書が完成したとも言える。『ローマの信徒への手紙』11章にはイスラエルと異邦人の関わりの喩えとしてオリーブの接木を語る。根を下ろした野生のオリーブはイスラエル、接木されたのは異邦人キリスト者。そして『コリントの信徒への手紙Ⅰ』3章によれば「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神」。パウロのこのようなメッセージから拓かれる展望とは何か。
 第一にはかつてイスラエルに敵対した部族もキリストの福音に包まれることだ。『出エジプト記』でヘブライ人を虐げたファラオも異邦人。また、イスラエルの民と争うアマレクやペリシテの民、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アッシリア人、バビロニア人もまた異邦人。これらの異邦人にもキリストの福音の力が及び、全ての民を包む。第二には「時」を超えた福音の広がりがある。パウロの記したテキストは地球規模で世界を覆うことになった。中東から遠く離れた極東の地で福音が宣べ伝えられると誰が想像しただろうか。このように、旧約聖書を縦横無尽に解き明かしたパウロとその影響を受けた人々のわざは、世のいたるところへと広がった。本日の箇所ではパウロは宿舎にやって来た大勢のユダヤ教徒相手に朝から晩まで力強く証しを立てたとある。旧約聖書を用いて語りかけた結果、ある者はパウロの言うことを聞き入れ、イエスが救い主であると認めた。パウロはイザヤ書の6章9節から10節を引用し、異邦人に向けられた救いを語る。
 使徒言行録の書き手は次のように記して筆を置く。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。それではその二年を経てパウロはどうなったのか。殉教したとの話が有力だ。
 この証しの群れに泉北ニュータウン教会も立つ。かつてドイツ語圏の教会関係者や神学研究者と語らった際、「日本の教会員は質実ともに実によく教会を支えている」と感嘆された。また同時に、日本の心ある教会は、かつて私たちがナチスの時代に迫害したユダヤ教と同じ状況に置かれているとの言葉も頂いた。これは私たちの信仰生活が絶えず地域の文化や人間関係との間にある葛藤を踏まえての話。その葛藤こそ教会の力の源だとの言葉に感じ入った。私たちの信仰はそのものとしてはまさにトルソー。私たち一人ひとりのアイデンティティーが教会に深く根を下ろしているかどうかは、絶えずアブラハムの神が吟味されている。『ガラテヤの信徒への手紙』でパウロが記すとおり、イエスの焼き印を私たちが身に帯びていることは、同時に私たちがアブラハムの神のものであることを示す。私たちがキリスト教という宗教を選んだのではなく、神が私たちを招いてくださった。パウロの最後の働きを祝福していた神の愛に包まれ、ひらすら歩んでまいりましょう!