2017年5月7日日曜日

2017年5月7日「主イエスの背中を見つめて歩む」稲山聖修牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ12章3~13節

 こどもさんびかには大人のあり方を問われる作品がある。例えば「どんなときでも」。作詞は高橋順子さん。骨肉腫の手術の数日前に書いた詩に、召天後メロディーがつけられ歌われるようになった。八年間の生涯を振り絞って作られた詩を私たちは用いている。
 この讃美歌からは人生には限りがあり、終わりがあるという厳粛な事実が読み取れる。この事実は高齢者だけの現実ではない。それは老いも若きも包み込む出来事だ。それゆえにこそ、教会はより包括的な働きを目指さなければならない。その理由は教会の立つところが、そしてキリスト教信仰の核が、イエス・キリストの復活への確信にあるからだ。被造物としての私たちは死に至るという厳粛な事柄に勝る出来事をイエス・キリストが明らかにされ、死に対する命の勝利が謳われたところから始まるのが、私たちの歩み。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか」(『コリントの信徒への手紙Ⅰ』15章54節)。このパウロの言葉に立てば、葬儀をめぐる問いが終末の時、神の国の訪れの時への備えとしての意味に転換されなければならない。
 私たちの信仰生活にはイエス・キリストと向き合う面と、復活したイエス・キリストの背を見つめて追いかける面がある。「キリストに従う」わざの内実だ。旧約聖書では神の背中を仰ぐという表現は『出エジプト記』にある。旧約聖書では今、この時にあって、神と人とが顔と顔を合せることはできない。神の愛の力は破れに満ちた私たちには過分であるとの理解が垣間見える。
 けれども本日の箇所ではどうか。『出エジプト記』では神の力が及ぶときには被造物である人の命はリスクにさらされるが、イエスが主であるとの告白の際には、助け主・弁護者としての聖霊の執成しが働く。イエス・神・聖霊という三位一体の神の働きが今朝の箇所には簡潔に記される。そして教会を構成する人々の賜物が聖霊によって結ばれる。人と人とを結びつけているのは、定まらない気分や趣味判断、好みやプライドの問題や打算ではない。派閥や党派の問題でも勿論ない。4節から7節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全てのことをなさるのは同じ神です。一人ひとりに全体の益となるためです」とある。どの賜物が勝っているか、どの奉仕が優れているかをパウロは記さない。さらに11節からは「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人ひとりに分け与えてくださるのです。身体は一つでも、多くの部分から成り、身体のすべての部分の数は多くても、身体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分であろうと、皆一つの身体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。パウロの構想した教会がいかに多様性に満ちているかが分る。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」との言葉。初代教会にはヘブライの伝統に堅く立とうとする群れと、ギリシア語を用い、ヘブライの伝統には直接与しない群れには争いが絶えなかった。教会のわざは赦しから始まらずにはおれなかった。同時に「奴隷であろうと自由な身分であろうと」。そこには絶望的な身分・経済格差による交わりの断絶がある。けれどもパウロはそこに復活されたキリストによる一致と和解を説く。定型文としての信仰告白の芽生えとともに、読み書きのできない人もまたその信仰をもって義とされた豊かさ。私たちも包括的な礼拝共同体に立って神の国の訪れに備える群れを整えたい。