2017年4月23日日曜日

2017年4月23日「いのちはキリストの平和とともに」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~29節

 ヨハネによる福音書には聖霊に関する記述が圧倒的に多い。この前提に立つと、キリストの復活の報せを聞いた弟子たちの狼狽にもまた神の力が及んでいることが分かる。つまり、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。弟子たちを捕えているのは、次は自分たちが捕縛され殺されるという恐怖。しかし同時にこの狼狽は、復活の報せを受けたからこその体たらくだったのかもしれない。恐怖だけが先立つのであれば弟子たちは逃げ去っているはずだ。けれども彼らは家に留まりつつ混乱している。この記事からは、復活の報せがキリストの消息に蓋をして、弟子たちに足止めを食らわせたという理解も可能だ。恐怖の中で立ちすくむ混沌とした状況。その中で復活したイエスが現れる。ヨハネによる福音書に記される弁護者たる聖霊の働きとともに。
 それでは主イエスは何を語ったのか。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。「あなたがたに平和があるように」。エイレネー・ヒュミーン。ギリシア語で記される平和、エイレネーはもともと戦争と戦争の間の暫定的な平和に過ぎないが、福音書の言わんとするところは神の平和でありヘブライ語のシャーロームだったはずだ。キリストの語る平和が脆くはないことは、主イエスが手と脇腹をお見せになったところにある。十字架につけられ、釘打たれた際の傷跡と、止めとして脇腹を槍で刺された傷跡。無残な傷があるのにも拘らず、弟子たちは主を見て喜んだとある。ヨハネ福音書で記される二度目の甦りの記事の中で、弟子たちはキリストとの出会いを素直に喜んで神の平和を与えられる。それは争いに打ち勝ち、死に対する恐れを消し去る喜びだ。教会もこの喜びに連なる。
 続く箇所で主は派遣の言葉を語るが、ここでも「あなたがたに平和があるように」と繰り返す。私たちは怯んではいけない。それは弁護者としての聖霊がいるからだ。そして「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。「息を吹きかける」とは、アダムにいのちを吹き込んだ神に重なるキリストのわざだ。弟子たちは新たにされていく。神お一人以外には出来ないとされた罪の赦しの権限すら与えられる。トマスの疑いでさえ「あなたがたに平和があるように」との三度目の言葉の中で耕され、確信へと深められる。
この一週間、私たちは決して種々の思い煩いから自由ではなかった。しかし主イエスはその諸々の真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と仰せになる。案じることはないと言われる。嘘と争いの報せに満ちた世に嫌気さえ覚える私たちに、主は聖霊を受けよと仰せになる。主イエスのいのちの勝利の言葉がこの週も響く。