2017年3月15日水曜日

2017年3月12日「心を開き、春の風を迎えよう」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書3章20~30節

マルコによる福音書の5章1節から始まる、ゲラサの男性との関わりの中で今朝の箇所に立ち返ると、主イエスが自らの身内との関わりの中でゲラサの男性の苦しみを先取りしている様子を看取できる。数を頼みとする幸せの尺度を突き放し、まさに99匹の羊を主に委ね、この一匹の羊を探し求める羊飼いの教えとわざは、社会の主流からは受け入れられない。ベルゼブルとは蝿の姿に象徴される悪霊。蠅のように匿名で集まる妬みの群れ。その群れがどれほど多くとも主イエスは毅然と突き放す。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。罵声を浴びせる律法学者に主イエスは切り返す。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛りあげなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪う取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。
荒れ野の誘惑で主イエスを試みるあのサタン。世の国も同じ文脈で語られる。これも人の権力が行使される国。内輪もめする家も暴力では諍いが絶えない。遂には略奪・強盗の譬えまでが語られる。主イエスを陥れるあらゆる暴言は、何かを育もうとする思いから出るのではなく、貶め、排除し、奪い、傷つけるものだとの前提に立つ。「はっきり言っておく。人の子らが犯すどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」。心ない言葉を呟く私たち。破れを抱えているからこそ全てが赦しのもとにあると主イエスは語る。匿名の言葉の暴力。それは絶えず慎みと悔い改めに置かれる。そのときに赦しは生じる。主イエスも多くの罵りや嘲りに身を置いた。主は神ご自身の力を信頼していたからこそ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分らないのです」と十字架上で語り得た。しかし「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず永遠に罪の責めを負う」とも語られる。赦されざる冒涜とは、人々の希望の光ともなる、キリストに示された神の愛をないかのように語ろうとし、希望を奪い、誤った導きを与える言葉である。愛ではなく憎しみを教える言葉である。それは神の国の訪れにあって、徹底的に打ち負かされる。この神の愛の勝利が「赦されない」との言葉に暗示され、主イエスの十字架にいたる苦難と死への勝利としての復活へと貫徹される。主イエスはまさに、汚れた霊に取憑かれたと見なされた人々と同じ立場に立って、卑賤の道を歩まれた。少数者が妬みやガス抜きのために絶えず冒涜の言葉に晒される時代。そのような人々の苦しみを神様は忘れない。春のめざめ、いのちの希望はそこにはある。