2017年3月26日日曜日

2017年3月26日「いのちの希望を先どりして」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

世に言う山上の変容の物語。主イエスが受難の歩みと死と葬り、そして復活の出来事に無理解なペトロをしかりつけ、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」と語った六日の後。
 主イエスは十字架での死と復活を拒んだペトロも含めた三名の弟子を連れて山に登った。ここで主は、まさにメシアとしてよみがえり、天に昇られたそのままの姿を弟子の前に露わにする。さらに主イエスはモーセ、そしてエリヤと語り合っているという、一見不思議な光景がこの箇所では描かれる。主イエスがメシアとして担う役割と関わりが、「語り合う」との言葉のもと活きいきと描かれる。
 モーセもエリヤも、イスラエルの民の無理解のもと、懸命にアブラハムの神の召出しに応じて闘った解放者であり預言者。モーセは貧しさの中で鈍するヘブライ人のため、エリヤは神なき繁栄に溺れるイスラエルの民を導くため生涯を献げた。
 この場に居合わせた弟子達はただただ狼狽える。「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。仮小屋という言葉はドイツ語ではヒュッテと記される。山小屋というよりは祠のようなものかもしれない。出来事としての啓示を弟子は受けとめきれず、暮しとはほど遠い場でひたすら奉ろうとする。教会の信仰と偶像礼拝は紙一重の差に過ぎない。
 けれどもモーセやエリヤとは異なり、主イエスはそんな愚かな弟子たちをお赦しになる。アブラハムの神も主イエスに全権を委任する。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたとありますが、イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい、恐れることはない」。イエス・キリストを通して私たちにアブラハムの神が深く関わってくださっているとのメッセージが響く。
 山の上での出来事とともに、受難の痛みをすでに知り、弟子たちに語るイエス・キリスト。そこにはモーセやエリヤと同じように苦しみや孤独の中で、なおも神の国の訪れを証しした救い主の姿がある。神の国は光り輝く雲に隠されていた。いのちの希望がそこにある。教会の奉仕に倦んでしまったときには、礼拝のみに集中し、主の言葉に耳を傾けるところから再出発したい。齢を重ねる毎に、私たちは輝く雲に包まれる中で、主イエスが私たちに手を触れていることに確信を深める。病の床、戦の世、暮しの困窮、競争社会の中にあっても、その確信は変わらない。

2017年3月19日日曜日

2017年3月19日「いのちを慈しむために」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

東北地方沿岸部では、津波で亡くなったはずの家族に出会った体験談が頻繁にある。迷信だと決めつけられない嘆きがそこにある。この体験は温もりや励ましといった「ともにいる感覚」を鋭くし、生きる負い目を断ち切る。原発事故が終わらない一方で犠牲者に励まされ歩む人がいるならば世の終末とは別の意味で近代の終焉を感じる。
本日の聖書の箇所ではイエスが当時としては都会であり、聖なる都であるエルサレムに必ず上り、そしてそこで政治的な権力も備えていた長老、祭司長、律法学者たちから苦しみをうけて殺されるとの話を、主イエスは弟子たちに打ち明ける。するとペトロはイエスを諫め始める。しかし主イエスは言う。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神を思わず、人を思っている』」。ペトロへの徹底的な拒絶がある。なぜか。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ペトロは主イエスへの負い目がなく、自己への絶望がない。主イエスは負い目から目をそらすなと語る。続いて「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。「わたしのために命を失う者は、それを得る」。この決断は別の言葉で言い換えられる。「わたしのために命を献げる者はそれを得る」。
創世記の族長物語では、アブラハムがイサクを神に犠牲として献げようとする。神がアブラハムを選んだ事実はそのわざに先んじる。イサクは死ななかった。だから主イエスは語る。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」!荒野の試練の物語でサタンは主イエスに全世界を引き合いにして誘惑した。メシアの復活を拒むペトロの態度はサタンのわざと同じだ。
主イエスの問う厳粛な決断は次の道筋にある。「人の子は、父の栄光輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。神の選びの決断、恵みの決断を拒み、神なしに全世界を選ぶならば、神の祝福は裁きとなって臨む。誰かは終わりの時まで分らないは、恵みの安売りを主イエスはしない。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国とともに来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。ここに記される「死」とは己のいのちと全世界との取引。この取引に関わる者は、幼いいのちや小さないのちを虐げる。他方身を挺して生きるなら、神の国の訪れとともなる復活がある。魂だけでもそばに居てほしいとの嘆きを負いながら復活の主イエスは悲しみを静かに癒す。

2017年3月15日水曜日

2017年3月12日「心を開き、春の風を迎えよう」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書3章20~30節

マルコによる福音書の5章1節から始まる、ゲラサの男性との関わりの中で今朝の箇所に立ち返ると、主イエスが自らの身内との関わりの中でゲラサの男性の苦しみを先取りしている様子を看取できる。数を頼みとする幸せの尺度を突き放し、まさに99匹の羊を主に委ね、この一匹の羊を探し求める羊飼いの教えとわざは、社会の主流からは受け入れられない。ベルゼブルとは蝿の姿に象徴される悪霊。蠅のように匿名で集まる妬みの群れ。その群れがどれほど多くとも主イエスは毅然と突き放す。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。罵声を浴びせる律法学者に主イエスは切り返す。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛りあげなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪う取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。
荒れ野の誘惑で主イエスを試みるあのサタン。世の国も同じ文脈で語られる。これも人の権力が行使される国。内輪もめする家も暴力では諍いが絶えない。遂には略奪・強盗の譬えまでが語られる。主イエスを陥れるあらゆる暴言は、何かを育もうとする思いから出るのではなく、貶め、排除し、奪い、傷つけるものだとの前提に立つ。「はっきり言っておく。人の子らが犯すどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」。心ない言葉を呟く私たち。破れを抱えているからこそ全てが赦しのもとにあると主イエスは語る。匿名の言葉の暴力。それは絶えず慎みと悔い改めに置かれる。そのときに赦しは生じる。主イエスも多くの罵りや嘲りに身を置いた。主は神ご自身の力を信頼していたからこそ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分らないのです」と十字架上で語り得た。しかし「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず永遠に罪の責めを負う」とも語られる。赦されざる冒涜とは、人々の希望の光ともなる、キリストに示された神の愛をないかのように語ろうとし、希望を奪い、誤った導きを与える言葉である。愛ではなく憎しみを教える言葉である。それは神の国の訪れにあって、徹底的に打ち負かされる。この神の愛の勝利が「赦されない」との言葉に暗示され、主イエスの十字架にいたる苦難と死への勝利としての復活へと貫徹される。主イエスはまさに、汚れた霊に取憑かれたと見なされた人々と同じ立場に立って、卑賤の道を歩まれた。少数者が妬みやガス抜きのために絶えず冒涜の言葉に晒される時代。そのような人々の苦しみを神様は忘れない。春のめざめ、いのちの希望はそこにはある。

2017年3月5日日曜日

2017年3月5日「試練と誘惑」牛田匡神学生

聖書箇所:マタイによる福音書4章1~11節、ヤコブの手紙1章12~18節

 映画『沈黙』の中には、禁教下の日本で迫害されながらも、キリスト教信仰を守っている信徒たちの姿が描かれています。信仰を守り抜いて殺された「強い人」がいて、信仰を棄てた「弱い人」がいました。神を信じたために迫害され殺されていくという不条理の中、神は何をしておられるのか。それは作品の最後で明らかになります。「私は沈黙していたのではない。苦しんでいるあなたたちと共に苦しんでいた。そのために私は十字架に架かったのだ」と……。このような神は、現代を生きる私たちの間にも見ることのできる、感じることのできる神様の姿ではないでしょうか。
 『ヤコブの手紙』には、「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」と記されています。神様が「強い人」と「弱い人」を分けて創られたのではありません。人間が他者を「強い」とか「弱い」とか裁くのです。2000年前にパレスチナの地を歩まれたイエス様は、そのように社会の中で「役に立たない」「価値がない」と裁かれ、差別されていた人々の所へ出かけて行かれては、「あなたも大切な人なんだよ」と、伝えて行かれました。そしてその言葉や振る舞いは、自他を裁くという「誘惑」から人々を解放していくものでした。
 先日の水曜日から、教会暦では「受難節」に入りました。主イエスの苦難と十字架の死を覚え、また私たち自身も自らの苦難と取り組み、その先にある「復活」という希望を見出す期間です。イエス・キリストはその公生涯の初めに、「石をパンに変えよ」「天使たちに支え守ってもらえ」などという悪魔の「誘惑」を退けられました。イエス様はその公生涯を通じて、人々のために数々の奇跡を行いましたが、ご自分のためには奇跡を行われませんでした。そしてその最期ですら「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」という「誘惑」を退けられました。そのようにして主イエスはご自分が「神の子」であることを、「力」や「奇跡」によってではなく、全ての人々のためにご自身を献げられるという徹底した「愛」によって、私たちに示されたのでした。
 この世界は、「試み」と「誘惑」に満ちています。私たちも「誘惑」にさらされ、「奇跡」を求め、他人を裁いてしまうことがあります。御心に従い、全ての生命を大切にする生き方ができる者へと変えられて行きたいと願っています。