2017年2月26日日曜日

2017年2月26日「安心しなさい」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~36節

主イエスは弟子たちを強いて、無理矢理に舟に乗り込ませ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。さらりと主イエスの振る舞いを描く箇所。考えてみれば無茶だ。弟子たちに主イエスはいつ戻るかも知らせずに向こう岸に渡るようにと舟に乗り込ませる。弟子を心細さの極みに置く主イエス。夜が訪れようとするその時、舟を嵐の只中に送り出すとのわざ。秋から冬にかけて、ガリラヤ湖には突風が吹き荒れ、それが半日も続くこともある。それが夜の湖ならばなおの恐怖。旧約聖書との関連で今朝の箇所は俄然活きいきとする。例えば創世記の洪水物語。それは生ける者を根切りにする大災害である。預言者ヨナはヨナ書で神のみ旨より逃れようと船に乗るものの、嵐の海に投げ込まれ、魚の腹の中で回心する。出エジプト記でヘブライ人を追いつめるエジプト軍は、海の底に沈む。
このように水や海と関わる箇所を集めると、異なる意味合いも含まれてくる。暮らしに不可欠ながら、命をも飲み込む諸刃の剣としての世。弟子たちを乗せた船は混沌とした世に人の命をつなぐ場となる。世に隠された教会の働き。しかし弟子は恐怖に呑み込まれて混乱するばかりだ。
混乱の中で声を上げた弟子。それは主イエスの筆頭弟子と目されるペトロ。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫ぶ覚束ないその歩み。
「主よ、助けてください」。私たちはこの一週間、何度この言葉を呟いたことか。けれども主イエスは手を伸ばして捕まえ、ペトロが世の波へ沈まないようにする。
本日の箇所は、ペトロを諫める主イエスの言葉だけに終わらない。「そして、二人が舟に乗り込むと、嵐は静まった」。主イエスの「安心しなさい」との言葉がここで実現する。そして弟子たちは「あなたは神の子だ」と主イエスを礼拝する。その結果与えられた力とは、ゲネサレトという地に到着し、癒しのわざを行われたとの記事で終わる。主イエスの癒しは弟子と無関係ではない。湖での試練を通して教会は主イエスとの絆を確認し、癒しの力を新たに注がれる。「強い風」とは、主イエスを知らない者には恐怖の源だが、主イエスをキリストであると告白する者には聖霊の働きとなる。主イエスのわざは創造主なる神・聖霊のわざと不可分である。この週私たちは受難節を迎える。神の愛に包まれているとの確信を得て新たな週を歩みたい。

2017年2月19日日曜日

2017年2月19日 早春特別礼拝説教「一人ではない」鴨島兄弟教会牧師 大田健悟牧師

聖書箇所:イザヤ書41章8~10節

恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。《イザヤ書41章10節》

「恐れるな」―これは聖書の中で何度も繰り返されるメッセージです。逆に言うならば、私たちの人生がそれだけ「恐れさせるもの」で満ちている、と言うことでしょう。新聞には現在の問題や不安、それに対する対処法、そんなことがたくさん書かれています。しかし神様は私たちに恐れなくても大丈夫、とおっしゃるのです。
スヌーピーの漫画「ピーナッツ」のエピソードに、二人のこどもが「安心ってなんだとおもう?」「それはパパとママが運転している車の後部座席で、なんにもしないで寝ていられる、ってことだよ」とやり取りする場面があります。そして会話は「でも、いつまでもそんなわけにはいかない。大人になったら、全部自分でなんとかしなきゃならないんだ!」と言うオチに続いてきます。確かに私たちは皆このように、自分の身は自分で守る、と教わってきました。しかしこれは神様のおっしゃることと真反対です。

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。《エレミヤ書31章3節》
そのとこしえの愛の大きさは、神が神であることをやめ、この暗い世界に人としてお生れになるほどの愛です。聖霊である神様が天を捨ててこの汚れた私たちの内に住んでくださるほどの愛です。人間は皆「罪びと」なので、神に対して罪を犯しています。そしてイエス様こそが「私たちの罪を償ういけにえ」なのだ、と聖書は言います。イエス様がわたしの罪のために身代わりの「いけにえ」として十字架にかかってくださったことを信じるだけで、私たちは天の国籍をもつようになり、孤軍奮闘の人生からも救われるのです。あなたがどう生きたら幸せなのかは神様がよくご存知で、私たちは生まれる前から神の恵みの中に置かれているのです。
神様は、その独り子であるイエス様をあなたの身代わりとして十字架にかけるほどにあなたを愛しておられます。イエス様の十字架によって、罪を犯して神様から遠く離れ去っていた私たちは神様と和解させていただきました。ですから、神様があなたを見捨てたり、あなたが一人ぼっちになったりすることはもうありえないのです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《ヨハネによる福音書3章16節》

2017年2月12日日曜日

2017年2月12日「神の愛につつまれて生きる道」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書5章17~20節

 「律法」には二つの意味がある。ひとつには、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記という、かつてはモーセ五書とも呼ばれたひとまとまりの書物、今一つには出エジプト記にある十戒を枠組みとした613の誡めを示す。主イエスは律法学者と激しい論戦を行った。だがファリサイ派や律法学者を憎んだとは福音書には記されない。むしろマタイ福音書5章20節では「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とある。主イエスは、律法学者の正しさ、あるいはファリサイ派の正しさや誠実さといったものに、一定の評価を与えている。では律法学者やファリサイ派が抱えていた問題点とは何か。それは律法の理解の排他性にあったといえる。崇高な言葉が金科玉条として掲げられ、排除を生むならば文字は人を殺す。
 律法学者は概して信仰の浅さ深さを問うたが、本来はメシアを仰ぐ態度を顧みるべきであった。信仰は生き方であり、説教も生き方。だからこそ主イエスは語る。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国では最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。比較も善し悪しも越えた神の恵みなしには私たちは聖書の字面を追うだけだ。
律法の完成者の語る教えは「善いサマリア人のたとえ」。ある律法学者が「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいか」と主イエスに迫る。この場面で主イエスは律法の一文を相手に答えさせる。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」。主イエスは、この律法学者の答えを「正しい答えだ」と肯定する。その上で「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答える。なおも食い下がる律法学者に語るのは、ユダヤの民からは穢れた人々とされ、一切の関わりを絶たれていたサマリア人が旅人を助けた物語。「隣人となったのは誰か、律法を守ったのは誰か」と問う。
主イエスの聖書の解き明かしは、聖書を共有していない人との交わりをも育む。主は神の愛につつまれて生きる道を備える。その途上、私たちはわれ知らずして、思いも寄らなかった和解のわざを、隣人と結ぶ恵みとして授かる。主の足跡を辿り、祈り求めよう。 

2017年2月5日日曜日

2017年2月5日「出来事としての啓示」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書13章10~17節

 弟子たちはイエスに近寄って「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と言った。それは敢えて弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからだ」と主イエスが語っている通りだ。主イエスは文化人のサークルの中で教えを語ったり、対話を好んだりしたわけではない。民衆の中に分け入っていき、神の慰めと癒しの言葉を証ししたのが主イエスだ。その言葉は「たとえ」という表現を伴う。なぜか。暮らしの中の一場面を用いる中で、聴き手に気づきを与えることが、神の国への窓につながるからだ。「たとえ」の意図は分かりやすい話に秘められたメッセージに、神の国の窓を気づかせること。分からなければ、その話は他人事として終わる。この「私」に迫るメッセージなのか、それとも他人事か。これが主イエスの語る「たとえ話」のもつ醍醐味だ。残念なことに、神の国のたとえ話はなかなか伝わるものではないよ、と主イエスは弟子たちに語る。それは旧約聖書に根ざした、主イエスの極めて鋭い洞察に立つ。
旧約聖書は神の前に過ちを犯さない人はどこにもいない、義人はいないとの立場にある。それゆえに人間そのものの能力に対し、主イエスは自分の言葉を受け入れる力をあてにはしていない。人の言葉のやりとりには必ず誤解が生じる。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くこともなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない」。イザヤは何もその時代の愚かな人々を指して言ったのではない。神に選ばれたはずのイスラエルの民でさえこのような穴を避けられなかった。
 けれども、と主イエスは続ける。「しかし、あなたがたの目は見ている」。「あなたたがたの耳は聞いている」。だから幸いなのだという。「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものをみたかったが、見ることはできなかった。あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかった」。預言者や正しい人、神の前に無垢であった人でさえ、聞くことなく、見ることもなく、隠されていたことがあったと主イエスは語る。それは出来事として、天の国の秘密を開くイエス・キリストの啓示として起きる。イエス・キリストとの関わりが生まれるとき、私たちは俗世の知識とは異なる知恵を授かる。私たちは鶏が鳴く前に三度主イエスを否んだ弟子のペトロを想起したい。ペトロは慟哭とともに主イエスの言葉を全身全霊で受け止めた。和解の主イエス・キリストの啓示の出来事に触れ、心眼を開かれた一人の人間の姿がそこにある。