2017年1月29日日曜日

2017年1月29日「きけ、こどもたちのうたを」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書21章12~17節
 
 「イエスによるエルサレム神殿の宮清め」の箇所。イエスは境内の中で「売り買いをしていた人々」を追い出した。その相手は、第一には両替人。エルサレムの神殿への献金は、皇帝の肖像の彫られたローマの通貨は使用できない。その時代の神殿では偶像が刻まれた貨幣となるからだ。だから両替が必要になる。その手数料を一定の額に固定すると、多額の献金をする資産家には有利に働き、貧しい者には負担となる。次に主イエスが追い出したのは「鳩を売る者」。ルカ福音書には「始めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とあり、そのためには、山鳩一つがいか、あるいは家鳩の雛二羽が用いられた。聖別の献げものはあくまで鳩である。問題は鳩を「売る者」が境内にいたことだ。貧しい者の献げものとして定められた鳩でさえ金銭的な制約がかかる。経済格差が生育環境からすでに影を落とし、不条理は「罪」という排除と自己責任を示す言葉で正当化される。聖なるものとして祝福を授けられない幼子が境内に見える。
 主イエスは一見狼藉とも見える振る舞いとともに語る。「『こう書いてある。わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている』。これはゼカリヤ書やエレミヤ書から引用される。天地万物の創造主にしてアブラハムの神の祝福が、神殿では金儲けの手段にされているありさま。そのさまをじっと見つめる群れがある。エルサレム入城の以降の舞台には滅多に描かれない主イエスの癒しのわざ。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによってきたので、イエスはこれらの人々を癒された」。自己責任の呪縛から解き放ち、主イエスを中心とする交わりに加えられた人々。このわざを見た境内のこどもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ。聖別されずにたむろするこどもは汚らしいと遠ざけられたこどもたち。詰め寄る祭司や律法学者に主イエスは「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは讃美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」と答える。
 蔑まれていた人々やこどもたちの純真なこころが、主イエスの態度に応えた瞬間。粗暴に映るわざの陰には神殿でさえ人間扱いされなかった人々との深い交わりがあった。そしてこどもたちは、俗世に被れたユダヤ教の祭司による聖別の儀式を受ける前に、すでに神の祝福を看て取った。顧みて今の世。「でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。原発事故により避難を余儀なくされた横浜市の中学一年生の手記。穢れた者だと虐げられながら学校から黙殺された生徒のことば。大人は何をしているのか。キリストの恩寵による交わりが育まれることを祈ってやまない。

2017年1月26日木曜日

2017年1月22日「時代の波に希望は揺るがない」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書4章12~17節

 洗礼者ヨハネ逮捕の知らせを聞いた主イエスは「ガリラヤへ退かれた」とあるように後追いをせず、早まりはしなかった。進退を見極める主イエスの態度はヨハネによる福音書によると一層鮮明になる。その根底には2章23節以降の口語訳で「しかし、イエス御自身は彼らに御自分をお任せにはならなかった」とある通りだ。濃密な間柄の中で描かれる洗礼者ヨハネと主イエスだが、実は各々授けられた役割を存分に知り尽くした上で各々授けられた役目に基づいて道を歩む。主イエスは命を狙われ、一人あることを恐れず、ガリラヤに退かれ、そして故郷ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。遠回りの道筋の中で、実はその時代のユダヤの中心であったエルサレムからは異邦人の街・辺境として退けられ、見捨てられていた街。中心ではなく周辺にある街に主イエスは暫く働きの拠点を置く。
何らかの理由で主イエスが宣教活動の途上滞在する場は、今後とも何らかの暫定性を帯びる。それは時に弟子たちに覚悟を求める。しかしそれはいつ何があってもその場の危機に対応して神から委託された役目を疎かにはしないことでもある。主イエスが十字架にお架かりになるその先には復活がある。精神主義や熱狂主義に立つ玉砕の道とは無縁だ。
 かの国では逃げないことが美徳とされた。逃げることは恥であった。その思い詰めの中で組織に過剰に適応する余り、時や組織の変化に対応できず、無残な最期を迎える話が後を絶たない。主イエスの示す「暫定的なあり方」とは、その只中で肩の力を抜くゆとりをもたらす。深い癒しと慰めとともに。
 時代の過渡期との言葉はよく礼拝説教で用いられる。私たちは戸惑う。何に向かっての過渡期なのか。それは未来が予測不可能だからではない。これからいくつもの重い課題に直面すると分っていながら、そのために何をすればよいのか分らないからだ。しかし主イエスは語る。洗礼者ヨハネとは異なる場所で、しかしヨハネからバトンを引き継ぎなら、救い主として律法全体を完成させるために。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
時代の波に神の希望は決して揺るがない。時代の波は常に暫定的だ。その波に主イエスのわざも柔軟に対応するがゆえに暫定的である。主イエスの暫定性は柔軟性につながり、私たちを自由にする。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。こどもや大人、若きも老いも、囚われの身にあっても、私たちは真理を知るゆえに自由だ。イエス・キリストの賜る自由な恵みに何ら不自由しないから。

2017年1月15日日曜日

2017年1月15日「神の愛のネットワーク」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書4章18~25節

 弟子となるペトロとアンデレの生業が漁師であるとの物語の展開。ガリラヤ湖はローマ帝国の水路として用いられ、人々の暮らしを満たす場ではなかった。ルカによる福音書で、主イエスがシモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語りかけた際に、シモンは網を洗いながら「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答える。漁師という生業の過酷さ。主イエスが向かった生活の場とは日毎の暮しが闘いであった場でもある。
 主イエスの弟子になる。それはキリストに従う態度と証しを伴う。そのわざは世との関わりとの否定からではなく、垂直に被造物と関わり、わたしたちを愛する創造主なる神を仰ぐところから始まる。神の姿は見えないからこそ、神の御子として上から、そして「ともにいます神」として関わるキリストを判断基準の根底に据えなければならない。この事柄が抜け落ちるならば、教会のあらゆる奉仕からは喜びが失われる。
 キリストに従う態度とわざは実に豊かな多様性を秘めている。今朝の聖書箇所の後半、新約聖書の6頁冒頭では、イエス・キリストが自由に道を行き巡る姿が活きいきと記される。多彩な地中海世界が凝縮されたような街々で苦しみ悶えていた人々はただ癒されるだけでなく、イエスに「従った」。イエス・キリストを中心にした円をモデルにした交わりがこのとき生まれる。弟子とは誰かとの問いはガリラヤの漁師を超えていく。イエス・キリストを中心にした交わりに由来しながら、さらに世のための教会共同体の原型が構想される。キリストに従う態度とわざとは、祝福を受けた者が、その祝福に世のために応えていく姿を伴う。それはかたちとしては特定の枠にははまらない。政治的神奉仕という言葉。これは世にある教会が神讃美の中で人々にいかに仕えるかを問う。イエス・キリストの癒しのわざは、世にある神讃美が否定されるどころか、主御自ら率先して行ったことを示す。だから奉仕にあたりわたしたちは己を顧みる前に、イエス・キリストを仰ぐのだ。キリストを仰ぐならば「わたしの信仰」は「わたしたちの信仰」へと変えられる。なぜなら神の愛のネットワークは、世に困窮の闇が深まるほどに広まるからだ。信仰はアクセサリーやステイタスではなく、教会のわざは人の世のきまぐれを判断基準とはしない。教会のわざを考えるにあたり中心に立つのは誰なのかを忘れてはいけないのだ。

2017年1月8日日曜日

2017年1月8日「わたしの愛する子」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節

 洗礼者ヨハネの活躍の場は荒れ野。それは人による統治のしくみの保護外での暮らしを意味する。ヨハネは街に入らず集落の外で教えを宣べ伝える。大勢の人々、ファリサイ派やサドカイ派までがヨハネのもとに来た。ファリサイ派は旧約聖書に通じた学者。他方サドカイ派はエルサレムの神殿の大祭司を始めとした祭儀を行い、ユダヤの政を司る者でもあった。当時のユダヤはローマ帝国の属州であり、その身分の保証にはローマ帝国の官僚の思惑が働く。洗礼者ヨハネのもとに人々が集まり敢えて悔い改めの洗礼を受けずにおれなかった事情。それは古代ユダヤ教そのものの世俗化だ。
洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい身を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と語る。これは政治と混然一体化したユダヤ教主流派への批判だ。
 洗礼者ヨハネと深く関わりのあったユダヤ教のグループとして徹底してこの世の尺度を拒んだ群れがある。それはエッセネ派と呼ばれる群れ。エッセネ派は荒れ野に群れを作り沐浴をして身体を清める。ローマ帝国の後ろ盾あってのエルサレムの神殿への無言の抵抗がある。この群れとの関わりが推し量れるヨハネは、救い主の訪れについて語る。「わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない」。ヨハネは自らが救い主を指し示す一本の指以上の者ではないと自覚する。
 「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼。救い主である主イエスには本来妥当しないはず。だからヨハネはそれを思いとどまらせようとする。ヨハネにはこれはあり得ない出来事だ。しかし主イエスは語る。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです」。主イエスのヨハネからの洗礼の出来事は、クリスマスと並ぶ神の恵みを現わす。それは神が遣わされた救い主が世俗化されたユダヤ教に連なる者としての意思表明に示される。街中に入ろうとしない洗礼者ヨハネに対し主イエスは人の設けた垣根を越えて俗世の泥をかぶり証しを立てる。神の愛が世に示されるために。主なる神が仰せられた「わたしの愛する子」。御子イエス・キリストの言葉に耳を傾けその足跡を辿る一週間にしたい。

2017年1月1日日曜日

2017年1月1日「新たに始まる旅路」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書2章13~23節

東方からやってきた三人の博士達の帰国の後、夢で危機を天使から知らされたヨセフが家族を連れてエジプトへ逃れる時を同じくして、ヘロデ王によるベツレヘムの幼児虐殺が起き、その治世が終わった後にヨセフとマリア、そしてイエスがナザレに暮しの拠点を置くとの物語の構成。折角喜びに満ちたクリスマスの光の中で、なぜこのような残酷なお話が書き記されているのか私たちは首をかしげる。けれども福音書は、救い主の降誕の祝いが物忌にあたる出来事を決して排除せず、むしろ救い主の降誕の希望の光のもとに世の悲しみが暴露されるしくみに立つ。私たちはここに福音書のリアリズムを看取したい。福音書で描かれる「主の天使」のわざは、辞書でいう「使い・使者」の役割を超えている。
主の天使は受胎告知の場面ではマリアを祝福する。そして慄くヨセフの不安を取り除き、みどり子の名前まで定める。主の天使が翼をもつものとして描かれた背後には、神のわざである聖霊の働きが示されているようにも思える。その意味では翼をもつ天使の姿は決して侮ることができない姿でもある。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい」。ヨセフに目覚めよと促す夢はまどろみとは異質。「後ろを振り返らず、エジプトに逃れよ。私が告げるまで、そこに留まれ。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている」。王としての権力を確立したはずのヘロデ王には「ユダヤ人の王とは自分のことだ」との意識があったはずだ。幼子と血縁なき父ヨセフはマリアともども懸命に抜け道を走りぬく。ヘロデ王が権力欲しさに伴侶と一族に次々と手にかけた姿とは対照的だ。血のつながりあればこそ募る嫉妬と恐怖もある。幼児虐殺の描写には、救い主キリストの顕れの中で問われるありのままの世の姿がある。
後の箇所で主イエスが語った山上の垂訓は神の国にある世の変貌を示す。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」。幼子を殺められた親を慰めるのは誰なのか。それは他ならないイエス・キリストである。世界には生まれながらにして困窮に喘ぐ人は数知れない。そしてかつて一億総中流との言葉を誇ったこの国でさえ例外ではない。一億総格差社会。その中で未来を拓き、クリスマスの無名の家族を導いた神の力に身を委ねつつ、その使信を究極的な判断基準としたい。みつばさのかげで安らう時を、新たな年も主は備えてくださる。