2017年12月31日日曜日

2017年12月31日「光の中をあゆむ旅路」 稲山聖修牧師

2017年12月31日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「光の中をあゆむ旅路」
『マタイによる福音書』2章1~12節
稲山聖修牧師
 
栄枯盛衰は世の流れ。チグリス川・ユーフラテス川に挟まれた土地は、多くの国々が栄えては衰える場ともなった。国破れて山河あり。興亡の中、人々は様々な知恵を会得した。その地にあって知恵の頂点に立っていた三人の博士。博士らにはローマ帝国の力でさえ、実に儚いものとして映ったことだろう。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。三人の博士らにはローマ帝国でさえ歴史の浅い統一国家であり、その行く末は過概ね見当がついている。それだけではなく、ヘロデ王にいたっては、もはや傀儡の王でしかないことも見通せた。
 博士の問いをめぐりエルサレムの街は大混乱に陥る。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。安定を望むあまり、政権転覆を恐れるヘロデは、三博士との出会いをきっかけにしてメシア抹殺を企てる。神の栄光を喜びとはしない人の闇の姿がある。しかしヘロデは、謀略を進める中、メシアの誕生から一層逃れられなくなる。ヘロデが集めたのはエルサレムの神殿にいる大祭司ではなくて、人々から尊敬を集め、祈りを献げる祭司長・律法学者であることを物語は際立たせる。彼らは御用学者ではない。ヘロデ王の赦しを得た三人の博士は星に導かれ、救い主がおられたことを確信し喜びに包まれる。そしてついに母マリアとともにいるみどり児を礼拝し、聖なる献げものを各々献げた。しかし三人の博士はヘロデ王のお雇い諜報員にはならなかった。御使いの言葉を夢で聞き、別の道を通って帰国したのである。
 博士らは追いつめられた権力者が何をしでかすか、ローマ帝国の支配の及ばない地にあってすでに多くの学びを得ていただろう。争いがどれほど惨たらしい者であるかも知っていただろう。博士らは、自らの祖先が奴隷とした民の中から、ローマ帝国の枠組みを超える、全ての被造物の救い主が出ることを、星を頼りに歩んできた。クリスマス物語にも、聖書ならではの独特のリアリズムがある。人間とは、ひとたび闇に転落するならばかくも残酷になれるとのメッセージがあり、その一方で光の中を探し求め、道を歩む者が遂には救い主を見出して礼拝した後に、その道がどれほど険しくとも、闇に覆われた道ではなく、光に包まれた道へと導かれていく様子が記される。
 山上の垂訓で、主イエスは次のように語る。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを乱す者は少ない」。本日は大晦日であり、明日からは2018年を迎える。私たちは三人の博士たちのように、狭い門にある道を歩んだろうか。そして来る年、不平なしに新たな道を切り拓けるだろうか。その道が見出せるならば、この教会の前途は困難であろうとも安泰に違いない。世の動きがどうであろうと、注意を怠らず、そしてなおも、あたかも何事も起こらなかったかのように、神さまから託された役目を果たしていきたい。三人の博士はその役目を全うしたのであった。それはまさしくキリストに従う道。新たな年に、アブラハムの神のあふれる祝福を祈る交わりでありたい。

2017年12月24日日曜日

2017年12月24日「開かれた恵みのとびら」 稲山聖修牧師

2017年12月24日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「開かれた恵みのとびら」
『ルカによる福音書』2章8~21節
稲山聖修牧師

創世記の族長物語に描かれる羊飼い。アブラハムに導かれ、家畜の世話をしつつ旅を続けた人々。その行くところ神の祝福があった。転じて土地は神に属し、部族全体の居場所と出会いの豊かさを湛えていた。それからほぼ2000年を経たクリスマス物語に描かれる羊飼い。この羊飼いは、領主、即ち大地主の農場で働く労働者に過ぎない。それだけではなく、皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令の適用外にあった。人として数えもされなかった羊飼いの暮し向きは果たして。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。果たして羊飼いが夜通し羊の群れの番をしていたのは、羊を護るためだけであったのか。
例えば。ホームレスの方々は、凍死や暴力から逃れるため、厳寒の夜に身体に毛布や布団を巻いて一晩中歩き回るという。朝日が昇るころに眠りに就く人々。丸腰のホームレスは身を護るために夜通し歩かなければならない。羊飼いたちは羊を護るだけでなく、自らを守るために夜通し羊の群れの番をしなければならなかったかもしれない。人の力による光の影に隠れてしまっている人々を、福音書の書き手は物語の舞台へと招く。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。主の栄光に包まれた羊飼いたちは主の栄光を前にして恐怖する。人は神の栄光を前に直ちに喜びに包まれるのではなくて、恐怖し狼狽える。主の栄光を前にしてあらゆる人生設計や、日々の暮らしの段取りや拠り所が突き崩され、狼狽えるほかはない。その中で次の声が響く。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。天使の告げる「民全体」とは、皇帝の勅令の中でも人として扱われない人々、言葉の異なる人々、ユダヤ人も異邦人も全てを指す。関係が分断され、棄民扱いされる者と皇帝とが全て等しい地平に置かれ、救い主を中心とした交わりを新たに創造する。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。聖書に描かれる全ての人々が「民全体」として数えられる。アブラハムの神による日々の糧の再分配が、神の国の実現を目指して始まる。
それだけではない。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」。無力な羊飼いたちは、ひときわ神と深く関係づけられる。天の大軍はローマの軍団でさえ無力化する力を秘めているからだ。聖書は世俗の現実を無視しない。その中心に据えられるのは「地には平和、御心に適う人にあれ」。抑圧と暴力装置による抑圧と恐怖による平和ではなく「御心に適う人」に神の平和が授けられる。この出来事によって、暮しの不安と恐怖によって土地に縛られていた羊飼いたちの態度が一変し、「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」。救い主の訪れが告げられた後、羊飼いたちは極めて雄弁に、これまでとは異なる世界へ足を踏み入れようと、実に積極的なあり方へと変貌する。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。もっとも虐げられたところに置かれていたはずの人々に、神の恵みの扉は開かれた。
 世の誉れを中心にした繁栄とは反対に、主にある貧しさは、人々を強く結びつける力を秘めている。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」とは『ルカによる福音書』6章20節にある山上の垂訓の箇所だ。クリスマスの喜びを深く噛みしめるわたしたちである。

2017年12月17日日曜日

2017年12月17日「悲しみが喜びに変わるとき」 稲山聖修牧師

2017年12月17日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「悲しみが喜びに変わるとき」
『ルカによる福音書』2章1~7節
稲山聖修牧師

 『ルカによる福音書』の書き手はローマ帝国の支配秩序を明晰に論じる。皇帝アウグストゥスを頂点とし、その下にはシリア州総督キリニウスを記す。さらにその下でヘロデ大王が傀儡政権として君臨した。主イエスが成長し、十字架と復活、昇天の出来事から50年ほどの時を経て『ルカによる福音書』が成立する。この福音書は冒頭に「テオフィロ」というローマ帝国の高級官僚への献呈辞を冠する割にはローマ帝国の統治原理を突き放して論じている。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」。勅令は服従なしには処罰される。「これは、キリニウスがシリア州の総督であったときの行われた最初の住民登録であった」。人頭税を効率的に徴収するアイデアの実現。納税申告のために日常を中断して無理やり帰郷する旅路は殺気立ち、誰にも目もくれない集団となる。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」。産み月に入っているマリアさえこの申告を免除や延期を赦されない。そして故郷の誰もこの夫婦を顧みない。同じような境遇の中で母子ともに命を脅かされた人が果たして何人いたか。
詩人の栗原貞子が描く『生ましめんかな』は被爆直後の夜、避難所となったビルの地下室で産まれたみどり児と、重傷をおしてお産を助け、力尽きた助産婦の姿を対照的かつ荘厳に描く。だがしかし、あの凄惨な場所でさえ助産婦はいたのだ。『ルカによる福音書』のクリスマス物語にはマリアを気遣う姿はどこにもない。見方を変えれば、核爆弾の投下されたその日の夜の地下室にも増して、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という一文は、皇帝の勅令の異様さと暴力、そしてマリアとヨセフのこの世的な無力さを物語っている。それでは、マリアとヨセフ、そして幼子イエスは、吹き荒れる世の権力のなすがままにされるだけだったのか。そうではなかったことを、マリアの神讃美の歌からわたしたちは知る。
マリアは世の権力者に対する神の国の審判を神讃美とともに歌う。「主はその腕で力を奮い、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で観たし、富める者を空腹で追い返す」。この歌は、神の国ならではの自由と平等を先取りして、世のいかなる革命歌よりも高らかに人々の解放を歌い、力強く神を讃えつつ、救い主の誕生を祝う。いのちがけで出産を助ける助産婦すらいない、家畜小屋の飼い葉桶をつつむ神の栄光が『生ましめんかな』の世界をも照らし、息絶えた人々をいのちと甦りの希望の光につつむ。マリアの神讃美の歌は、幾度も続いたユダヤの民の対ローマ戦争を越えて、ローマ帝国最後のキリスト教迫害者ユリアヌス帝の最期の言葉に結実する。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。迫害者の臨終にそう言わしめた勝利者キリストの誕生が近づいている。飼い葉桶に眠るキリストにあって、人には癒しがたい悲しみでさえ、神の恵みにあふれた深い喜びに変えられる。その深い癒しと平和を導く力を深く信頼しつつ、わたしたちはクリスマスの訪れを待ち望む。

2017年12月10日日曜日

2017年12月10日「洗礼者ヨハネが示す救い主」 稲山聖修牧師

2017年12月10日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「洗礼者ヨハネが示す救い主」
『ルカによる福音書』1章67~80節
稲山聖修牧師

イザヤ書40章1~5節までの言葉を語りつつ、「最後の預言者」と呼ばれる洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるための洗礼を宣べ伝えた。これは四つの福音書全てに記されているだけに、救い主の訪れを想う上で不可欠の記事だ。このヨハネの父ザカリヤは祭司であり、エリサベトを伴侶としたと、『ルカによる福音書』は記す。あるときザカリヤは神殿の聖所で主の天使から「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」。ザカリヤはこの言葉を受け入れない。「わたしも妻も老人である」のがその理由だ。天使が答えるには「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを告げるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことはできなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。祭司の口が封じられる。それは職能上の障りだけでなく、祭司の役割を定める律法を破ることでもある。ザカリヤは務めを果たせないどこか、心ならずも御使いの力によって律法に相応しく暮らすことができなくなる。ザカリヤは祭司としての一切の力を封じられてしまう恐怖を味わう。ザカリヤの舌が動くようになるのは、エリサベトが男の子を授かり、律法が定めた割礼の日に、父として名をつけるその時。ザカリヤはこの場で息子の名前を記す。「この子の名はヨハネ」。そのとき舌のほどけたザカリヤは神をほめ讃える。「イスラエルの神である主」「僕ダビデの家」「聖なる契約」「我らの父アブラハム」「いと高き方の預言者」「我らの歩みを平和の道に導く」という、旧約聖書の預言者が担った働きとともに、ヨハネが担う役目が記される。そして「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの民の前に現れるまで荒れ野にいた」と実に麗しく、クリスマス物語に相応しい展開でひとまず終わる。それではヨハネ自身は、生涯を一貫して雄々しく救い主の訪れを語り得たのか。
 ヘロデに幽閉されたヨハネは、『ルカによる福音書』7章18節以降で、人生の終わりを前に、二人の弟子たちを遣いに出し、次のように主イエスに問いかける。「来るべき方はあなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネ自ら「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、ヨルダン川で清めの洗礼を授けたはずの主イエスについてこのように呟かざるを得ない。己の限界を知り、悶え苦しむ姿が赤裸々に描かれる。それは当然のことだ。ヨハネは救い主の前に立つ、一介の預言者に過ぎないからだ。思えば孤独の中で喘ぎ、苦しみ身悶えしながら旧約の預言者たちは神の言葉を証ししたのだった。主イエスはヨハネの弟子に語る。「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである」。これこそ、救い主にのみ備えられた権能である。神の国の訪れの前には、死はその力を失い、不正な世にあって苦難の極みにある人々に喜びが告げ知らされており、それは神のわざの中で時がくるまで隠されている。すなわち「わたしに躓かない人は幸いである」。多くの人が、イエスが救い主であることに気づかない中、「わたしに躓かない者は幸いである」との答えが堂々とヨハネに伝えられる。「来るべき方はあなたですか。それともほかの人を待たなければなりませんか」との問いこそが、ヨハネがまことの預言者であったことを証し、同時にイエス・キリストを指し示してもいる。飼い葉桶に生まれた救い主は、ヨハネにもそのような戸惑いを生ぜしめた。だからこそ、御子イエス・キリストは、まことの救い主だとの確信が与えられる。クリスマスの出来事は、わたしたちだけが覚える記念に留まらず、神が自らに刻んでおられる、癒しと慰めに満ちた救いの出来事なのだ。

2017年12月3日日曜日

2017年12月3日「失意を喜びに変える約束」 稲山聖修牧師

2017年12月03日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「失意を喜びに変える約束」
『エレミヤ書』31章31~36節
稲山聖修牧師

「聞け、イスラエルよ」と呼びかける預言者の姿。待降節第1主日を迎えてわたしたちが目を注ぐのは預言者エレミヤ。彼は超大国バビロニア王国の要求を全て呑み、主の計らいを前にしたイスラエルの残りの民の悔い改めを望んだ。しかしイスラエルの残りの民は、もはや神ではなく、人の力に頼ろうとする。エレミヤはイスラエルの民に自ら悔い改め、主に立ち返るというわざをもはや期待しない。むしろ、バビロニアの捕虜となることで、出エジプトの解放だけでは砕かれなかった民の頑なさを打ち破ろうとした。エレミヤは、侵略者であるはずのバビロニア王国の王を、「アブラハムの神の僕」とさえ称するのだ。
 バビロン捕囚にいたるまでの道筋に希望を見出すならば、アブラハムの神がイスラエルの民のありようを徹底的に新たにする中で光を見出す他にはない。『エレミヤ書』31節以降では「見よ、わたしはイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心をそれに記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。その時、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。掟破りの常習犯と化したイスラエルの民に新たに授けられるとのしらせ。それはもはや石にではなく、人々の心に刻まれる誡めだ。重要なのは、アブラハムの神とイスラエルの民との関係が赦しの中で本来の姿を取り戻すだけでなく、すでに人は立場を問わず主を知っており、互いに「主を知れ」といって教えることはない、とのくだりだ。旧約聖書の中で、誡めに基づく神との関わりから、終末論的な律法の完成を視野に入れた民の救いが伝えられる。虜囚の民は救い主を待ち望むという神との関わりへの新たな転換を迎える。エルサレムの神殿は徹底的に破壊されたが、イスラエルの民は生き延びたのだ。イスラエルの残りの民は異邦人の権力に屈しつつ歩む。その苦難が深まるほど、民はメシアにいのちの希望を託した。
 新約聖書では洗礼者ヨハネが「最後の預言者」として描かれる。『マルコによる福音書』の冒頭には「神の子イエス・キリストの福音の始め」と端的に記される。イスラエルの民がどれほど救い主を待ち望んでいたか。書き手はイザヤ書を引用する。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」。『マルコによる福音書』は、美しいクリスマス物語を省略してまで、ヨハネに語らせる。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちすらない」。
『マルコによる福音書』成立時には、主イエスの時代のエルサレムの神殿もまた廃墟と化していた。ローマ帝国の支配への絶望的な反抗の結果、神殿は完膚なきまでに叩き潰された。廃墟に先立つ混乱の中から預言者が待ち望んでいた救い主が世に現れる。その方こそイエス・キリスト。預言者エレミヤがはるかに仰ぎ見た、律法の成就である。パウロは「イエスの焼き印を身に帯びている」と語った。神の愛よりも世の権能と虚しい繁栄を追い求める民の深い失意と絶望は、イエス・キリストの誕生にあって大いなる喜びに変えられる。救い主の誕生を待ち望む希望を新たにしたい。

2017年11月26日日曜日

2017年11月26日「よい実を結ぶ地を備えられて」 稲山聖修牧師

2017年11月26日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「よい実を結ぶ地を備えられて」
『マタイによる福音書』13章1~9節
稲山聖修牧師

主イエスは湖畔に腰を下ろしていた。集まったのは大勢の群衆。主は舟に乗って一定の距離を置かなければならなかった。主イエスを呑み込まんばかりの群衆の勢い。「群衆は岸辺に立っていた」。固唾を呑んで見守っている群衆とは、ギリシア語で「オクロス」。福音書にあってさえ名を記されない人々がいた。オクロスの民の一縷の望みとして、主イエスの名がその地には知れ渡っていた。
この場で主イエスが口を開かれ、語られたのが種蒔く人のたとえ。「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」。しかしたとえ話に描かれる農夫の働きぶりはいささか乱暴でもある。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」。鳥に啄まされてしまった種。しかし考えてみれば、道端に種を落とすような農夫がいるのだろうか。他の種はどうなったか。「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」。結果が早ければ人は容易く喜ぶ。しかしそこには深く根を下ろすだけの時の積み重ねがない。そのために枯れたのは分るのだが、充分に開墾されない土地に種蒔くような農夫がいるのだろうか。「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった」。茨の間に落ちた種が、その勢いに負けて育たないのはよくあることだ。けれども茨を取り除くこともなく、種を落とす農夫がどこにいるのだろうか。
この愚かな農夫が誰なのかを神の恩寵の中で見抜くわざが、わたしたちには求められている。思うに農夫は種を蒔く前、懸命に土地を耕したろう。けれどもそこには多くの問題が残されていた。農夫は誰なのか。それは続く箇所の主イエスの解き明かしの記事にもない。しかしおそらくこの農夫は初代教会の使徒たちであり教会に仕えていた人々の姿ではなかったか。それは時として無名の民であった。主イエス・キリストが遣わした人々の働きが「種蒔き」だった。
神の国の言葉の種。それがどこに蒔かれるのかは、種自らの知るところではない。主イエスは種を蒔き続けることによって何を目指しておられたのか。福音書において、主イエスは鳥に啄まれた種に、悪い者に奪い取られた神の国の言葉を重ねようとする。しかし奪い取られた神の国の言葉は、悪い者のありようを変えていく力を秘めている。石だらけの土地に蒔かれた種は、艱難や迫害がもたらす躓きの中で失われるように見える。しかし躓いた者は慟哭の中、イエス・キリストの生涯を再び思い起こす。心配事や富の誘惑の中で神の国の言葉を疎かにする者でさえ、生涯の終わりに、富の誘惑がいかに虚しく、思い煩いに振り回されたのがいかに愚かだったかとの嘆きに直面する。多くの人生行路を経て、わたしたちは神の国の言葉がまことであったと思い知る。主イエスが神の国の言葉を、種まき人の種に重ねるならば、この種は世の全ての誘惑や邪魔立てに打ち勝つのだ。世の国の言葉ではない、神の国の言葉。イエス・キリスト御自身が神の言葉として世に降り給う。待降節の喜びの兆しがこうして暗示される。かくして、道端も、石だらけの土地も、茨の生い茂る土地も、全てがよい土地となるために、耕されていく。それがわたしたちの日々の暮しのありようだ。この種蒔く農夫を用いるのは、他ならぬアブラハムの神、主なる神なのである。
5000年前の蓮の種が芽吹いて花を咲かせた出来事をわたしたちは知っている。眠っているかのように見える神の国の言葉は、イエスを主と仰ぐ神の民一人ひとりに深く根を下ろして、芽吹いた後、たわわに実るそのときを待っている。本日は収穫感謝記念日礼拝を執り行っている。その実りを、感謝とともに神に献げ、後に続く者のために用いていきたく願う。

2017年11月19日日曜日

2017年11月19日「いのちの水を求める声に応えて」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章9~11節、創世記24章9~14節

 年老いた僕は贈物であるラクダ十頭と主人アブラハムから託された宝物を携えての旅を始めた。この僕は、ラクダを町外れの井戸の傍らに休ませて祈ったと創世記に記される。この祈りは「主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。ラクダにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」。この祈りには、老いし身が、やがて交わりから排除されるのも世の倣いだとの覚悟と、その倣いに流されず、一杯のいのちの水を注ぐところ女性こそ、次世代を担う伴侶に相応しいとの願いが祈りとなる。僕とリベカとの出会いが始まる。
泉のほとりで起きた出会いと交わり。それは明らかに神の祝福のもとにある。この出会いの物語は『ヨハネによる福音書』の「サマリアの女性」の記事に重ねられる。主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っていた。長旅を続けていたアブラハムの僕のように、である。そこにサマリアの女性が水を汲みに来た。主イエスは「水を飲ませてください」と願う。注目すべきは女性がこの申し出に驚くところだ。それはなぜか。「ユダヤ人とサマリア人とは交際しなかったから」と福音書は記す。ユダヤ人とサマリア人の両者はまるで不倶戴天の敵同士のようだ。女性はイエスに応じる。「主よ、あなたはくむ者をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、そのこどもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。主イエスは語る。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちにいたる水が湧き出る」。リベカはイサクと縁戚にあり、かつ異性を知らない女性。他方、サマリアの女性は、5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではないと主イエスに指摘される。しかしこの女性は、主イエスとの交わりに加えられ、救い主の訪れをサマリア人に伝える役割を授かり、その器として用いられるのだ。
使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』5章9節で「それで今や」と語り始める。「わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」。空回りする自己本位の正義感は、いつしか交わりの破壊と死をもたらす。絶望の渦巻きにあるわたしたちを、主イエスは自らの血によって清めてくださった。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのですから、和解させて頂いた今は、御子のいのちによって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。イエス・キリストの贖いを通した神との関わりを隣人との関わりに重ねるならば、わたしたちは赦しが人のわざによらず、神の恵みのみによることを体感する。
本日は教会のバザー。働き手の不足を憂うる声も聞こえたが、主は必ず時に適った担い手を備え給う。誰がリベカをアブラハムの僕と出会わせたのか。誰がサマリアに、アブラハムの神の祝福が現臨すると考えたというのか。イエス・キリストから目をそらさなければ、必ず道は開かれる。バザーはその追体験ともなる教会のわざ。いのちの泉は神の祝福のもと、全ての人に備えられている。

2017年11月12日日曜日

2017年11月12日「わたしたちをつつむ主イエスの愛」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書7章24~30節

ある母娘と主イエスの出会い。娘の姿は殆ど福音書には描かれない。ガリラヤ湖周辺の町から離れ、主イエスは港町ティルスを訪れた。この港湾都市には多くの非ユダヤ人が住まいを構えており、「異邦人の町」でもあった。特にギリシア人にはユダヤの人々は複雑な思いを抱いたという。律法に無知でありながら、政治的には優位に立つ多数派が異邦人。ユダヤ人は異邦人には歪んだ選民意識に凝り固まった人々に映る。両者の亀裂は絶望的なまでに深かったという。
この亀裂を承知の上で母親は主イエスに近づく。娘は「汚れた霊に取憑かれていた」。重篤な病は福音書ではしばしばこのように表現される。主イエスに出会うその前から、この母娘は神に試みを受けていたのかもしれない。試みの中で母親は主イエスのもとに導かれ、そしてひれ伏した。「女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」。イスラエルの民とは歴史も文化も一切異なるこの女性には夫が見当たらない。母親は一縷の望みを主イエスに託した。
この求めに主イエスは実に冷淡だ。娘を思う一心からすがる母親に向けられたのは「まず、こどもたちに十分食べさせなければならない。こどものパンを取って、小犬にやってはいけない」との言葉。主イエスが言わんとする「こどもたち」とは、表向きには「イスラエルの民」とも理解できる。なぜならイエス・キリストは、旧約聖書の言葉が示す救い主であると再三にわたって福音書では主張されるからである。「小犬」とは蔑みの言葉で「とるにたらない犬」をも示す。ユダヤ教で言う「犬」とは死肉を貪る山犬である。実に残酷な言葉だ。
しかしながら、当時は単に病を癒すだけの祈祷師は、主イエスだけには限らずたむろしていた。暗に主イエスは次のメッセージを向けているようでもある。それは『マタイによる福音書』7章の言葉。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。単なる祈祷師であれば、娘の治癒を求める母親の前に敢えて立ちはだかろうとはしない。その代わり、癒しは全てその場しのぎである。主イエスが母親に問うのは病の治癒云々よりも一層深く立ち入ったところにある。それは母親の娘に対する思いであり関係だ。「あなたには今、門は閉ざされている。それではどうするのか」。このように問う主イエスに、母親は知恵とともに答える。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、こどものパン屑はいただきます」。母親は主イエスの一見残酷な言葉を受けとめた上で「主よ」と呼びかける。「確かにわたしはとるにたらない犬。けれどもイスラエルの民との関わりの中で、溢れる恵みはわたしたち異邦人にも注がれている」。その言葉には、まさに母ならではの力が秘められる。救い主に向けた言葉そのものが、娘の癒しの成就を示す。「それほど言うなら、よろしい」。意訳すれば「それほど言うのだから、あなたの切なる願いは叶った」。主イエスは母親との関わりの中で、願いの前に立ちはだかってより強め、母にアブラハムの神の力を備え、聞き届ける。わたしたちをつつむ主イエスの愛は、慌ただしさの中では姿を隠しているのかも知れない。しかし「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたくものには開かれる」と、主イエスは今も語りかける。

2017年11月5日日曜日

2017年11月5日「あなたたちは神の力を知らない」稲山聖修牧師

聖書箇所:ルカによる福音書20章27~40節

福音書の書き手は、主イエスとユダヤ教徒との対話に細心の注意を払う。本日の聖書では、サドカイ派とファリサイ派の人々と、主イエスの復活をめぐる問答が記される。『ルカによる福音書』では「復活があることを否定するサドカイ派の人々」とわざわざ記される。サドカイ派は自分たちの用いる聖書に復活否定の根拠を求める。この人々の用いる聖書はモーセ五書のみであり、モーセの葬りをもって『申命記』が幕を下ろすからだ。サドカイ派の人々は死が七度にもわたって襲い、一人遺された女性について語る。女性は伴侶を失う度にその弟と結婚する。これはイエスの時代に伴侶を亡くした者を支えるしくみではあったが、同時にこの例話は、主イエスの教えとわざへの挑戦でもあった。
 主イエスは「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることもなく嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と答える。モーセの戒めは、いまだ救われてはいないわたしたちの世でのみ初めて意味を持つ。神の新しい世界では七度も嫁ぐ必要はない。イエスは、わたしたちが天使に等しい者になる。天使のようになると語る。サドカイ派は、天の世界をも、御使いたちをも認めない。
 さらにイエスはサドカイ派に暗に語る。「あなたたちは、自分たちの聖書すら知らない」。サドカイ派も重んじる『出エジプト記』の記事では、モーセと出会った神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗る。この物語が「柴」の箇所と呼ばれる。
 アブラハムの神は、活ける関わりの中でそのわざをなし、人々をその名によって呼びかけ、苦しみから解放する。モーセ五書はモーセの葬りで終わるのではなく、アブラハムの神について語っていると、主イエスは指摘する。主イエスはわたしたちに死を見つめよとは語らない。頭をあげよと呼びかけている。アブラハムの神は、一人の名前をもつ人間と自らをひとたび結びつけたならば、二度とその関わりを廃棄しないからだ。
 永眠者の名簿には85名の名が記載される。数ではなく名である。この人たちも神のみもとにあって生きている。この方々とわたしたちが出会う場こそ主イエスの伝え・証しした神の国の希望だ。神の国はわたしたちの世界を包み込む。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからだ。神の国の訪れを先取りしているのが主イエスの世界であり、その教えについて頷くファリサイ派の姿を観る。そこにはまことに巨大な広がりをもつメッセージが響く。「全ての人は、神によって生きているからである」。主イエスの語る神は、死によって絶たれたと思われる大切な人々との関わりにも、いのちの息を吹き込む。恐怖と悲しみのどん底にある死を、主イエスは十字架の上で受けとめてくださった。
イエス・キリストを信頼し、わたしたちが寄り添うとき、神のみもとにあって安らう人々もまた、わたしたちに寄り添ってくださる。主の導きのもと生涯を全うされた方々。この方々は主のもとで今なお活きいきとわたしたちと関わっている。「あなたがたは神の力を知らない」と主イエスがわたしたちに問うならば、その問いは「わたしを信頼しなさい」との神の愛に満ちた思いが込められている。主イエスに悲しみを委ねる時、わたしたちは次世代に何を遺すべきかと希望に満ちた問いかけを主イエスに発しているのに気づかされる。 

2017年10月29日日曜日

2017年10月29日「待ちつつ、仰ぎつつ、望みつつ」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章1~8節、創世記24章1~8節、詩編130編1~8節

 ハロウィンの祭が賑やかな中、教会が忘れてはいけないのは、宗教改革記念日。ルターのカトリック教会への問題提起が契機とされる。ルターだけが英雄視されるならば、その記念も歪む。例えば100年前。宗教改革400年記念は、第一次世界大戦の最中に行われ、祭はドイツの戦勝祈願にも似たという。420年記念は、ゲルマン民族主義の熱狂的な高揚の中で行われ、歪んだ選民思想の中人々は茶色の服を着て右腕を高く上げた。今日、世界教会の時代にあって宗教改革を覚えて何をすべきかと言えば、ルターの英雄視ではなくて、ルターが民衆の言葉に訳した聖書を繰り返し味わいつつ、神の恵みに応える姿勢を確かめることだろう。
 本日の旧約聖書の箇所は『創世記』24章1節から8節。アブラハムも齢を重ね、老人となった。登場するのはアブラハムの他に、長く歩みをともにした僕(しもべ)。齢を重ねながら、長い人生を神の光の中、己の影と向き合いながらも歩んできた二人。アブラハムは名を記されない僕に語りかける。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」。この誓いには一族の存亡がかかった大事としてイサクの結婚が描かれる。この「許嫁探しの物語」は決して安易な結論を求めない。即ち、「今住んでいるカナンの娘からとるのではない」。カナンの地域にあるような、魅惑的な男性らしさや女性らしさはアブラハムの眼中にはない。何が大切なのか。それはアブラハムの主への深い信頼の言葉から明らかだ。「天の神である主は、お前の行く手に御使いを遣わす」。これがアブラハムの確信だ。老いてなおアブラハムの眼差しは過去にではなく、イサクとの関わりの中で未来に開かれている。これこそイエス・キリストにあって異邦人である私たちにも開かれた、恵みに応えるキリスト者の姿でもある。
 本日の『ローマの信徒への手紙』の箇所は有名な箇所だ。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。信仰とはルターの言葉によればキリストへの信頼と深く関わる。個人の所有物ではない。その信頼の中で次の言葉が記される。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。私たちが味わう苦難はただの苦難ではない。イエス・キリストへの信頼の中にあっての苦難だ。狼狽。落涙。閉じこもり。不信や猜疑が私たちを襲う。けれども、イエス・キリストへの信頼が全てに勝る。絶望の只中に置かれ、無力感にうちひしがれていたとしたとしても、イエス・キリストによって開かれた神の愛は、私たちの抱える苦難、すなわち不信、狼狽、猜疑、妬み、疑い、そして絶望を完膚なきまでに打ち砕く。
 詩編130編には、罪人の苦しみが癒され、変容される姿が記される。この詩編は異邦人ルターが繰り返し味わい、神の恵みを信頼する罪人の姿を心に刻んだ古代イスラエルの民の詩でもある。今日宗教改革という言葉がなお意味をもつならば、神の言葉への深い信頼なしにはあり得ない。改革は神の国の訪れの時まで終わらない。「私たちの『内なる人』は日々新たにされていく」(『コリントの信徒への手紙Ⅱ.4章16節』)。待ちつつ、仰ぎつつ、望みつつ、キリストの恵みに包まれて、私たちは神の光の中を歩むのだ!

2017年10月22日日曜日

2017年10月22日「見知らぬ人の厚意への切なる感謝」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章18~25節、創世記23章10~22節

 科学の道で最先端を行く人は人智を越えた力を感じずにはおれないという。今日の聖書箇所に記されるヘトの人々も常日頃からその意識が強かったと考えられる。この人々は宇宙から飛来した隕鉄を精錬し人類史上初めて鉄器を用いたとされる。今日の箇所から察するに、その目的はより強度のある農具の製造にある。農具は日常品だけに後世には残らない。けれども鉄の農具は農耕の民にはかけがえのない財産だ。ヘトの人々は畏れとともに夜空を仰ぎ、アブラハムと思いをともにしたかも知れない。
 ヘト人エフロンは衆目の前でアブラハムに答える。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴(ほらあな)も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速亡くなられた方を葬ってください」。アブラハムの依頼そのものは唐突であっても、死という出来事を受け入れる心備えは人々には日常であった。「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」。この時代に鉄は銀よりも貴重なレアメタルだ。アブラハムが当時はなかった貨幣の代わりに銀の塊を準備する。エフロンは銀で畑を売ろうと思っていない。その銀は何よりも土地売買のためにではなく感謝のしるしである。このしるしにより、アブラハムは堂々とサラの墓地を建て、ヘトの人々は一同そろってアブラハムの誠意に応えて畑を献げることができる。畑を開墾するにかかる手間は想像を絶する。たとえ銀塊でもその汗を量ることはできない。この深い交わりの中で、サラの墓地が建てられる。今やサラの墓はヘトの人々とアブラハム一族のかけがえのない絆の証しともなる。
 しかし時が移ろう中、この絆がほころび、破られるさまを私たちは目撃する。アブラハムの時代よりもはるか後のダビデ王の振る舞いがそれだ。王の権威を私物化し、ダビデが手をかけるのはバト・シェバ。その夫はダビデの忠実な家臣であり、エフロンの末裔ヘト人ウリヤ。ヘブライ人の倣いと戒めによれば、これは明らかにモーセの戒めの違反。醜聞が表沙汰になる前にダビデは策を弄して忠臣を謀殺し隠蔽しようとする。その様を聖書は「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記す。神はヘト人ウリヤの側に立つ。そして権力に翻弄される女性の側に立つ。主なる神はダビデの過ちだけでなく、汗水垂らして耕した畑をアブラハムに献げたエフロンの働きを決して忘れてはいない。だからこそ事実として是は是、非は非というわざを、ダビデを始めイスラエルの民に下すのだ。しかしそのわざはイスラエルの民を一重に滅ぼすためであったのか。
その問いを噛みしめながら『ローマの信徒への手紙』を味わえば、実のところ神が何を見ておられ、何をされ、関心を置かれるのかが分る。アブラハムにはダビデのように私物化しようにも私物化できる権力などなかった。アブラハムは家族や近親者の部族を守らなければとの責任、目の前に広がる荒れ野で行く道を見極める判断、そして多くの係争がありながらも一人息子のイサクをサラとの間に授かっただけだ。パウロはサラとの関わりを踏まえて、アブラハムには神から賜わる垂直の力によって諸力の源が備えられていたと記す。私たちに欠けているのはこの垂直の視点なのだ。神の交わりへの招き・人々の間にある垣根を越えていく力は、神のわざへの感謝として、イエス・キリストを通してすでに備えられている。「見知らぬ人への厚意」に頭を垂れたアブラハムの謙遜さ。イスラエルと異邦人の和解、隣人との和解と赦しという宝がそこに秘められている。

2017年10月15日日曜日

2017年10月15日「いのちの根を下ろす」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13~17節、創世記23章1~9節

アブラハム物語を辿るとき、サラの生涯が注目されるのは稀だ。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。サラに寄せたアブラハムの悲嘆の記事はこの箇所のみ。だからこそこの悲嘆には言葉にできない思いが凝縮される。サラは名を改める前から奇異な存在であった。「サライは赴任の女で、こどもができなかった」と、必要もないのにわざわざ系図に記される通りだ。ハランの町でアブラハムは神の招きを受けたが、エジプトに入ればサラはアブラハムの保身のためにファラオの側女にさせられる。その後なおも正妻ながらこどもを授からない苦しみを味わい続け、女奴隷ハガルをアブラハムのもとに遣わすが、その後ハガルに覚えたのは喜びよりも妬みであった。御使いたちにイサク誕生の予告を受けたときも、老いたサラには自嘲するより他に道がない。その乾いた笑いがイサク誕生による喜びに包まれた後、ハガルの息子イシュマエルとの確執に襲われる。この物語では母親としてイサクを護ろうとする鬼のような姿が露わになる。イサク奉献の物語には母としてのサラの影は薄く、その出来事が終わるや、サラは静かに生涯を終える。
 それでは問う。サラは幸せな人生を辿れたのだろうか。アブラハム以上に身を挺して神の祝福に応えようと苦闘せざるを得なかったのがサラの生涯だった。それを誰より知っていたのがアブラハムであり、だからこそアブラハムは胸を打ち、嘆き、一般の遊牧民とは異なるわざにとりかかる。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」。アブラハムの振る舞いはサラへの哀惜の念を際立たせ、時を超えた共感をもたらす。さらにはサラの葬りの申し出が、ヘトの人々との交わりを生み出す。サラの逝去と葬りのわざはヘトの人々にも悼みを分かち合うこととなり、異邦人との交わりの種がまかれる。サラの墓前に、いのちの根を下ろした、そして民の壁を越えた交わりが生れる。
 『ローマの信徒への手紙』4章13節には「神がアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」とある。16節でパウロは「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」と記す。私たちは聖書に書き記された物語を通して、聖書がそれとしては記されなかった世のアブラハムとサラの歴史を知る。聖書が信仰に不可欠なのは、かの時代の人々を包み込んだ神の恵みの力に思いを馳せ、その歴史を暮らしに刻むためだ。この力は次の言葉に収斂される。「死者にいのちを与え、存在してない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となった」。この箇所にはイエス・キリストの復活を通して私たちに示された神の愛の力が示されている。イエス・キリストの甦りは、イスラエルの民とならび異邦人である私たちにも、いのちの勝利をもたらした。サラもその例外ではない。救い主が私たちの間に命の根を下してくださった出来事。深く感謝したい。

2017年10月8日日曜日

2017年10月8日「人に知られずに備えられる神の道筋」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章1~12節、創世記22章9~19節

古代ギリシアの都市国家スパルタでは肉体的な健康が何よりも尊ばれた。先天的に戦に向かない特質をもって生れたこどもは城壁の外に捨てられた。このような考えは今日も克服されていない。但し更に昔の遺跡からは、長期にわたり障がいのケアーを受けた形跡のある遺骨が発見されてもいる。今昔いずれの人の暮らしがいのちを重んじているか、あるいは進歩しているかという問いそのものが無意味になりつつある。
ではなぜ神はアブラハムに息子を献げよと命じたのだろうか。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものはどこにありますか」と父に問うイサク。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える父親。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」。父が自分の一人息子を人身御供として神に献げるという実に不条理な場面。実はこのような箇所にこそ、創世記ならではのメッセージが隠されている。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』。」。 
神はアブラハムの信仰を弄んだのではない。天地創造の神は、御自身に模って創造された人間に「エデンの園の中心にある木の実は食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と語る。「死ぬな」と人に語る神ならば、イサクを人身御供として奪うことはない。さらにイサクの奉献の仕方である「焼き尽くす献げもの」が持つ意味は、本来は神への感謝のしるしとして行われ、喜びをもたらす。イサクが献げられたところで誰が喜ぶだろうか。肝心なのはアブラハムが神以外の何者も命じることのできない命令に応え、それを気持ちの問題ではなく、黙々と態度に示した現場を神は見ていたところだ。神の隠された愛に応じる証しがそこにある。
私たちはアブラハムがイサクを受けとり直したその喜びを、イエス・キリストとの関わりの中で自己点検できているだろうか。『ローマの信徒への手紙』4章でパウロが用いる言葉に「行いによらず」という文言が再三登場するが、それは信仰を字面だけ辿ればよいと語っているわけではない。喜びを伴っているのかどうかが問われる。神の恵みに応じる喜びは、異邦人もユダヤ人も問わないばかりか、先達への敬意を伴いながら、絶えず伝統を乗り越えていく型破りな創造性をも生み出す。証しにも多様性がある。黙々と薪を割るだけでも、病床にあって呻くように祈るだけでも、そこに喜びを待ち望む希望があるならば、備えられた神の道筋がある。
神が備えた信仰の道は、時に隠されている。真っ直ぐな道ばかりではない。その道はあらゆる世界に、あらゆる交わりに開かれているとパウロは語り、それは主イエスの自由で伸びやかな歩みに重ねられる。一人子すら惜しまなかった神の愛を、私たちはそのように受けとめたい。 

2017年10月1日日曜日

2017年10月1日「キリストに委ねる平和、キリストから授かる勇気」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章27~31節、創世記22章1~8節

 「鳥居」と名乗る女性の短歌集『キリンの子』が爆発的に売れている。『サラダ記念日』とは異なり、鳥居が詠むのは地べたを這う者が陽
だまりに手を伸ばすような願い。「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」。この歌集の購読者の生活状況に思いを馳せる。核家族のあり方が極限まで達し、「ワンオペ育児」が増える。その中で虐待に至るというケースが後を絶たない。これに経済格差が追い討ちをかける。鳥居は児童養護施設で虐待を受け精神科病棟への入院とホームレスを経験し、義務教育も受けずに育った。新聞と辞書が短歌の世界を開いた。
 創世記の物語はそのような社会の谷間に暮らす人にどのように映るのか。「あなたの子孫を浜の砂粒のようにする」との祝福を通して授けられたのはイサクただ一人。この一人息子との関わりをめぐり、神はアブラハムに命じる。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
 この不条理な命令にアブラハムは黙々と従う。黙々と薪を割るアブラハム。アブラハムは狂信者ではなかった。幾たびも彼の部族は切羽詰まった中で授けられたその知恵に助けられたことだろう。しかし神はイサクを名指しにしていることから、アブラハムには身代わりになる余地は残っていない。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる』」この文を読むと、アブラハムは薪を割りながらも一縷の望みを抱いているようでもある。それは神がそのようなことをなさるはずがないとの信頼だ。絶望的な命令を前にしてなおもアブラハムは神の命令に対して鎬を削るような葛藤を伴う信頼を抱く。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった」。何も知らない息子は父に「わたしのお父さん」と呼びかける。アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答える。ただ一人のこどもを「わたしの子よ」と呼ぶ。この「わたしの子」という言葉に表わされる親子関係が根底から新たにされる時が近づく。アブラハムには隠されているその時。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」とのイサクの問い。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。アブラハムは事態の瀬戸際まで神に信頼を置く。神が割って入る親子の関係にいたるまでアブラが刷新される。濃密な親子関係が陥りがちな共依存と独占の関係。イサクはアブラハムに独占されなかった。それが今後の展開となる。
パウロはモーセ五書を踏まえ、人の誇りはどこにあるのかと問う。主なる神の命令を前にしてアブラハムが誇りなど顧みなかった様子は今朝の物語からも読み取れる。続いてパウロが問うのは信仰の法則。これはイエス・キリストを通して示された神の恵みをわが身に重ねるわざである。それは必ずしもモーセ五書を拠り所とはしない異邦人にも開かれている。憂いに佇む私たちの前にはイエス・キリストによって開かれた道がある。その道は世界へと広がり、神の平和を告げ知らせるために用いられていく。経済的な問題や、家族の問題によって生まれた分断の壁をも超えていく。絶望の谷間を照らす光の中で、あらゆる世代の人々とのつながりを大切にしていきたい。『キリンの子』に心動かされる人々にこそ届く交わりを、私たちは神の光の中で祈り探し求める。

2017年9月17日日曜日

2017年9月17日「神の忍耐がもたらした恵みと知恵」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節、創世記21章9~18節

 本日の旧約聖書の箇所では、アブラハムが神から授けられた知恵によってどのように道を開き、そして神自らがハガルの前途に橋を架けたかを知る箇所。サラがイサクを授かったことにより、ハガルとイシュマエルの立場は脅かされる。イシュマエルとイサクとの無邪気な遊びでさえサラには悩みの種だ。ささいなこどものやりとりでさえ、サラには族長継承の問題を左右する出来事に映る。「あの女とあの子を追い出せ。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではない」。ハガルをアブラハムに与えたのにも関わらず、正妻サラのエゴが剝き出しになる。問題はもはや話し合いで解決する域を超えていた。苦しみ悩むアブラハムは神から「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」との言葉を授かる。アブラハムは自ら担う苦しみ悩みや思い煩いを全て神に委ねる。 この委ねにより、アブラハムはハガルやイシュマエルを手にかけるという、最悪の状況を避けることができた。「生きるに値しないいのち」などどこにもない。
その結果、ハガルはベエル・シェバの荒れ野をさまよい、皮袋の水がなくなると、彼女はこどもを一本の灌木の下に寝かせ「わたしは死ぬのを見るのは忍びない」と矢の届くほど離れ、弱り果てたイシュマエルを向いて座り、声を上げて泣く。この無力さの中で神の御使いはハガルに呼びかける。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕しっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。またもや「神は聞いた」というイシュマエルの名前の真意が再び確かめられ、アブラハムから出た人々としてその名が刻まれる。この物語をパウロもまたその父と母から繰り返し聴き、その中でイエス・キリストが救い主であるとの確信を得た。
 今朝の新約聖書では「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者に立証されて、神の義が示されました」とある。パウロのいう「律法」とは、613にわたるユダヤ教の誡めではなくて、かつてモーセ五書と呼ばれた、旧約聖書の最初の文書である『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』の五冊を示す。ユダヤ教で言う『トーラー』だ。この中には勿論ハガルとイシュマエルの物語も収められる。続く「預言者」も個々の預言者を指すのではなく、この預言者の物語を収めた『ネビイーム』を示す。つまり『トーラー』と『ネビイーム』という、パウロの時代の聖書が示されているのである。アブラハムの時代には勿論、このような書物は一切ない。『トーラー』『ネビイーム』の文言の頑なな墨守は救いの前提にはならない。けれども『トーラー』と『ネビイーム』が証しする通り、神の義が示されたのである。それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」である。
 高度経済成長期には深い闇も伴っていた事実を私たちは知っている。障がい者への風当たりは今よりも厳しく、孤児院に暮らすこどもたちへの社会の目は冷たかった。ショービジネスの世界に活路を見出した人々の中には、日本国籍を持たない人もいた。父母の国籍が異なる家のこどもは「合いの子」と蔑まれもした。そのなかで行政に先んじてさまざまな福祉分野や教育の場を設け、世にある垣根を突破する交わりを育み、その受け皿となったのは教会だった。本日は長寿感謝の日礼拝。齢80歳を数える兄弟姉妹のあゆみを通して証しされた神の恵みに感謝する日。激動の世にある教会の開拓期に携わったのが長寿を迎えられた兄弟姉妹である。私たちはこの事実を感謝の念とともに神の御前に立ちつつ、深く心に刻むのである。

2017年9月10日日曜日

2017年9月10日「役に立たない者だからこそ神の恵みの器となる」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9~22節、創世記21章1~8節

「津久井やまゆり園」で19人の知的障がいとの特性をもつ方々が殺害され、26人が重軽傷を受けた事件から一年余り。容疑者が同年2月、衆議院議長に犯行予告をしたのにも拘わらず政府は「やまゆり園」の警護を怠った。政治家に対する殺害予告とは異なる判断基準が機能したと考えずにはおれない。無自覚の全体主義。選別と排除。20世紀の負の歴史でもあるナチズムの特質は極端な成果主義にある。福祉政策が経済政策の邪魔になると見たナチは、障がい者の例外のない安楽死政策を打出すことで多くの国民の支持を得た。「生きるに値しないいのち」を人が定める恐ろしさと、神への冒涜がある。
本日の旧約聖書ではアブラハムの伴侶サラにいのちが授かり、わが子に「イサク(笑い)」と名づける場面が描かれる。族長物語の中でも喜び溢れる場面ではあるが、私たちはサラが不妊であるがゆえに味わった惨めさを忘れられない。子宝に恵まれるという神の祝福が人の世の成果主義と混同されているとの見方も可能だ。族長物語の世界にあっても「役立つかどうか」との世の尺度の問題は克服されていないのではないか。
一方福音書では、主イエスがこの荒んだ尺度を軽々と飛び越える場面が窺える。例えば『マルコによる福音書』の5章に記された、長血を患う女性。12年間出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても具合は悪くなる一方。とても子を授かるような身体ではない。彼女は社会から切り離され、治療の名のもとに搾取の対象にすらなり、経済的に追い詰められる状態が日常化している。この名もない女性が福音書で描かれる理由には、この苦しみの中でこそ味わえなかったイエス・キリストとの出会いと慰めが語り継がれなければならないという福音書記者と教会の決断があった。イエス・キリストとの関わりを軸にすることで、生き方の多様性が、ギスギスした功利主義から解放されて神さまからの恵みの器として受け入れられる。その根拠を人間の願望ではなく、神と人との救いの約束だからと聖書は書き記す。
パウロは『ローマの信徒への手紙』で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と読者に問い、そして答える。「全くありません」。なぜなら、「ユダヤ人もギリシア人もみな、罪の下にあるから」。「罪」を意味するギリシア語「ハマルティア」には、人は誰かの助けなしには必ず的外れなわざ、的外れな態度、的外れな理解に及ぶという幅の広さがある。自分の判断には狂いはないという一念は時として深く心を傷つける。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」。パウロは自分も含めて記す。そしてこの道筋を貫いて、パウロはユダヤ教徒とそれ以外の者である異邦人の垣根を取り払う。歪んだ選民思想はそこにはない。
聖書の言葉を問い訪ねていく中で、私たちは「役立つかどうか」という尺度だけで人を見るその愚かさに気づかされる。また「役立つかどうか」との考えで傷つけられた人が、実は神の栄光を現わしていたことに深く頭を下げざるを得ない。己の痛みを誰よりも知る者を、主イエス・キリストは涙と微笑みをもって癒し給う。だからこそ私たちは、キリストが教会の頭であり交わりの基であると確信する。かくして世が荒むほどに、教会に連なる交わりは世の光として輝きを増すのである。

2017年9月3日日曜日

2017年9月3日「はかりごとを打ち砕く神の恵み」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章1~8節、創世記19章36~38節
 
非常事態に事柄の真価が問われる。ロトはそのソドムへの神の審判を前にしてツォアル(小さい)との名の町に急ぐ中、ロトの伴侶は後ろを振り向く。神の避難指示を冗談であると聞き流した婿たちも硫黄の火に包まれた。この非常事態の中でツォアルに入らず洞窟に暮らすこととなったロトとその娘は、心に深手を負っただろう。そのさまは30節~35節に記される愚かな、まことに愚かな振る舞いとして露わにされる。その結果、二人の娘にはモアブとアンモンというこどもを授かる。イスラエルの誡めが適応されるなら間違いなく石打刑だ。確かにアンモンは、この後、ダビデ王の時代にいたるまでイスラエルの民を苛む異邦人となる。モアブ人はアンモン同様イスラエルを苛みながらも、やがてダビデの祖先ルツに繋がる系譜に数えられ、主イエスの父ヨセフまでの流れに立つ子として覚えられていく。大人がどれほど堕落しようと、授かる子どもには決して罪はない。子どもたちには罪はない。もし人の思い、すなわち「はかりごと」によって救い主の訪れが実現するならば、この子たちはイスラエルの歴史から排除されていたに相違ない。キリストなしに救いがないのは、他ならないイスラエルの民であり、アブラハムの一族もまた例外ではない。
 この記事を前提しながら「ユダヤ人の優れた点は何か」「割礼の利益とは何か」と問いかけつつパウロは語る。第一に、ユダヤ人は神の言葉を委ねられたという事実がある。次に彼らの中で不実な者がいても神の誠実さは無にされない。ソドムの街にアブラハムの神は救いの言葉を投げかけ続けた。「人は全て偽りもの」でありながらも「神は真実である」。だからこそ神の真実は人の偽りに勝り、時に神の恵みは人の目には怒りと映る場合もある。だからこそ「善が生じるために悪をしよう」との考えを罰せられないはずがないとパウロは語る。
「善が生じるために悪をしよう」との言葉は、現代の私たちの心の中にも深く入り込んでいる。例えば「必要悪」との言葉。何かを犠牲にして生き残った者が思考を停止する言い訳によく用いられる。あるいは「目的は手段を正当化する」との言葉。かつては暴力革命を正当化するため、今は医療や福祉、東日本・九州・北海道の被災地を無視した経済発展を正当化するために用いられる。
私たちは目的と手段を転倒させてはならない。神の恵みを輝かせるためには、誰一人犠牲にされてはならない。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1節~2節で語る。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。注目すべきは続く2節での言葉「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」である。
もし東日本大震災の直後、全国の諸教会が「この世に倣い」、ロトのようにためらっていたとしたら、教会も保育園も保護者もこどもたちも取り返しのつかない、深い傷を負っただろう。地震・津波・水害・原発事故。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。この言葉を私たちは9月を始めるにあたり噛みしめていきたいと切に願う。世にはびこる人の「はかりごと」を打ち砕かれるために、自らを十字架で犠牲にされた主イエス・キリストは、自らの栄光を世に現す。その時を待ち望みながら新しい月に歩みを踏み出そう。

2017年8月20日日曜日

2017年8月20日「いのちをわけへだてしない神」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記39章1~6節、ローマの信徒への手紙2章17~29節

 創世記のヨセフ物語で、ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けながら、その愛情と天賦の才としての夢の解き明かしの力が却って仇となり、兄たちに妬まれエジプトに奴隷として売られる。そしてファラオの侍従長でポティファルに買い取られる。この物語の面白さは、丸腰の奴隷としてエジプトに売られたヨセフには常に神がともにいたところ。それだけではなく、主がヨセフのなす全てをうまく計られるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理やすべての財産をヨセフに任せた、との記事である。現在では非常識だが、ヨセフに対する猜疑心なしにポティファルは「任せてしまった」。主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福され、主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。注目すべきはポティファルがエジプト人でありアブラハムの神を知らない点。その中でヨセフは全面的に信頼され、アブラハムの神から祝福を授かる。誰が奴隷の主人を祝福しているのかは神の秘義として隠されている。この箇所では、アブラハムの神の祝福が単にイスラエルの一族だけに限定されるのではなくて、ヨセフの主人にも及ぶところにそのスケールが窺える。礼拝後に各々遣わされた場で、私たちは空気を読むのに汲々とする。KY(クウキヲヨメナイ)と呼ばれるのを恐れる。しかしその態度は聖書のメッセージからは遠く離れていると言える。礼拝に連なる私たちは「空気」という名の同調圧力を恐れるのではなくて、神の力を信頼し神の息の窓となるのが筋であり新たな空気を作る役目を担っている。ヨセフはそのよき模範ではないだろうか。
 ところで使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』で語るメッセージには「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」とある。族長の世界では誡めとしての律法はないが、その物語の納められた書物は「トーラー(律法)」として重きをなす。「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」と記す言葉には、その時代のユダヤ教徒あるいはユダヤ教の影響を強く受けているキリスト者が、実はヨセフのように丸腰にはなれなかったと指摘される。パウロは語る。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。
確かに律法が自己弁護や自己正当化のために用いられるならば、神の救いへの道筋を示すどころか、正反対の結果を招く。聖書の言葉に救われて、人生の新しいライフステージに導かれる人もいれば、聖書を利用して無辜の民を殺める為政者もいるのは今も変わらない。さらには今朝の『ローマの信徒への手紙』の箇所と族長物語の接点は「割礼」にも及ぶ。割礼は族長物語の中でも重視されていた、神との契約のしるしである。しかしパウロの言葉は衝撃的だ。ユダヤ教徒ではないまま、イエス・キリストに示された神の愛を実践する無割礼の者が、割礼を受けながらも律法に従わない者に勝ると語るからだ。イエス・キリストは、いのちを分け隔てて優劣を問うことはなかった。それはヨセフ物語にあってすでに示されていた。あなたは聖書を読んでいるかとパウロは問うのだ。

2017年8月13日日曜日

2017年8月13日「キリストが 私たちを解放される日」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記19章12~17節、ローマの信徒への手紙2章11~16節
 「分割して統治せよ」の原則は古代ローマ帝国が定式化したと言われる。ポツダム宣言受諾後も人々の生活は極貧と凄惨を極めたが、厚生省の記録は二年後から始まる。但しこの二年間は戦後世界が最も安定していたとされ、その後は世界の国々で緊張が高まる。核を手にした大国は小さな国に代理戦争をさせ対立の中に安定を見出そうとする。恐怖の対立構造の中で人々は委縮し身動きが取れなくなる。その手法は、今なお私たちを委縮させるに充分な力を振るう。
 アブラムのとりなしにも拘わらず滅ぼされる都市国家ソドム。その街にいるただ一人の正しい人としてアブラムの甥ロトがいた。創世記が興味深いのは、神は裁きのわざの前に、必ず兆しを備えるところ。その徴の声に耳を傾けられるかどうかが救いの鍵となる。ロトはその兆しを知るが、危機を前にして家族を一致させられない。ロトの働きかけを婿たちは「冗談」と一蹴する。聞きたい知らせにしか耳を傾けない家族。迫りくる危機を前にして解体される家族の姿。「ロトはためらっていた」。ロトのこの孤独を「主は憐れむ」。裁きを降すはずの神がロトの苦しみを分かち合う中、家族の絆が新たにされる。
 今朝の箇所でパウロは「神は人を分け隔てなさいません」と記す。これは分断統治を掲げたローマ帝国の方針とは異質の在り方だ。パウロは一般論からではなく、聖書の解き明かしを通して語る。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。ユダヤ教の影響を色濃く受けたキリスト者、あるいはユダヤ教徒の同胞に呼びかける。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのだ」。つまり、神からの救いの道筋を備えられているという帰結になる。ロトの場合、「主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる』」となる。神はアブラムのとりなしを聞き届けたのにも拘わらず、街の人々は救いの言葉に耳を貸さなかった。残ったのは御使いに手を引かれたロトとその伴侶、二人の娘だけ。ここに聖書の解き明かしに基づいたソドム滅亡の理由が暗示される。ロトは神の命令を漠然と聞いていたのではなく、真正面から向き合い絶望する中で砕かれた後、神の憐れみにより救い出される。ユダヤ人も異邦人にも当てはまる姿。
 「神は人々の隠れた事柄を、キリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかにする」とパウロは記す。ソドムの滅亡の物語で主の御使いはロトに「山に逃れなさい」と伝えた。私たちも時折意に反して人生の危機に立たされ、数多の山を迎える。そのような山の上には何があるのか。
 『マタイによる福音書』5章では、山の上でイエス・キリストが山上の垂訓・山上の説教を語る。この教えではなぜ「幸い」との言葉が伴うのか。それはイエス・キリストを中心にした交わりには、常に新たにされる、破れのない天地の創造主の希望が据えられているからだ。聖書にある解放とは、神との絆の断絶ではなく刷新が肝心要となる。そこには孤独はない。分かれ分かれになりながらも、絶えずお互いに思いを馳せ、祈りによってつながる生死を超えた交わりがある。神は分割を喜ばず、分け隔てをされない。世に分断と争いの声が響くほど、キリストを頭とする教会の掲げる神の平和、神の希望に溢れた平和と解放の光は照り輝くのだ。

2017年8月6日日曜日

2017年8月6日「いつわりの平和、まことの平和」稲山聖修牧師

聖書箇所:エレミヤ書28章13~17節、ローマの信徒への手紙2章2~10節
 
あの日から72年目の朝。聖書で言う「平和」を意味する言葉には三つ。ギリシア語「エイレーネー」、ラテン語の「パークス」。しかしこの平和は本来戦時間平和を指す。20世紀、わたしたちの国は日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、アジア・太平洋戦争と六度の戦争を経た。戦争と戦争の間を指すのがエイレーネー本来の意味。破れと不安に満ちた平和だ。
 エレミヤの時代、この破れに満ちた平和を、恒久的な平和のように語る人々がユダ王国に現れる。アッシリアとエジプト、そしてバビロニアという超大国に挟まれた時代のユダ王国ではこのような人々がもて囃された。例えばエレミヤと対決したハナンヤ。彼は人々に告げる。「イスラエルの神、の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」。対して、エレミヤは長い関わりをもつ大国エジプトにおもねる人々に語る。「万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らのこの地を襲わせ、ことごとく滅ぼしつくさせると主は言われる」。すでに第一次バビロン捕囚が行われたにも拘わらず、エジプトにおもねり続ける人々にバビロニア王国の王は神の僕である!と説く。人々の憎悪はエレミヤに向かう。その急先鋒がハナンヤだった。イスラエルの民は、それがユダ王国という小国に衰えたとしても、神の平和にいたるには徹底的に砕かれなければならない。徹底的に砕かれるところから神の平和、シャーロームは始まるというメッセージが聞き取れる。エイレーネーが神のエイレーネーとなるためには、祖国はおろか、時には言葉も文化も民としての伝統も損なわれる中でエレミヤは語り、イスラエルの民は救い主の訪れを待つよりほかにはなかった。
旧約聖書に通暁したパウロは記す。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身をも罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。人を裁くな、と主イエスの言葉にあるが、これは単に個人の間で第三者を決めつけてはいけないばかりか、「裁き」とは生殺与奪という、本来は創造主である神がなすべき事柄であり、人には属してはならない事柄であり、虐げられた者を弁護するという力を発揮するわざ・人には決して及ぶことのないわざであるとの確信がある。神の裁きは必ず神の忍耐を伴う。だからこそ、神の裁きを論じる今朝の箇所で、神の裁きが悔い改めに導く神の憐みに繋がり、慈愛と寛容と忍耐と不可分のものとされる。7節にある「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とある。これは因果応報の理ではなく、主なる神が生きとし生けるものすべて、ご自身がいのちを与えた全ての被造物に心を寄せている証しである。イエス・キリストに示された神は、自らの御心を行う者には、国は言葉の隔てなく、あるいは被造物の営み、文化としての宗教の枠さえも超え出る栄光と誉と平和を備える。神の平和を体現するイエス・キリスト。戦争の記憶の継承が心配される中、私たちはイエス・キリストという道を通し、シャーロームの尊さを身体と心に刻み込む。偽りの平和の中、熱に浮かされたように声高に不安と憎悪が煽られるとき、神の愛の中でまことの平和を作り出す者は祝福され、神のこどもと呼ばれるのだ。

2017年7月30日日曜日

2017年7月30日「神の前で日毎の態度を確かめる私たち」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記18章1~15節、ローマの信徒への手紙1章25~32節

 「旅人をもてなしなさい」とは旧・新約聖書だけでなく、ムスリムの教えにも通じる考えだ。贅沢は必要ではないながらも、ただ一度きりの出会いのために開かれた心根をもってアブラハムは迎え入れる。「では、お言葉どおりにしましょう」との返事を受けて、三人の旅人に身をやつした御使いに、天幕に戻ったアブラハムは食事を振舞う。しかし問題は、この一連の物語の中で、サラはどのような表情をし、そしてどのような思いをしていたのか。サライは天幕の中にいる。三人はアブラハムの伴侶について尋ねる。「あなたの妻サラはどこにいますか」。御使いの一人は語る。「わたしは来年の今ごろ、必ずまたここに来ますが、そのころには、あなたの妻のサラにはこども生まれているでしょう」。サラは天幕の布越しに耳を傾けながらひそかに笑う。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるわけでもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。乾いた、悲しみに満ちた笑い。自らをあざ笑う笑い。涙も枯れ果てたとしか言いようのない笑い。神の約束すら虚しく響くとき、ため息とともに内向きの笑いをサラは浮かべざるを得なかった。
 教会に連なりながらもこの悲しみに呑まれた人の姿が今朝の新約聖書の箇所で描かれている。本日の箇所の鍵となるのは1章28節。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。神を認められなくなった悲しいありようをパウロは語る。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です」。これらの営みに取りつかれた人々が教会にいたのだ。このようなわざもまた、人の営みとして初代教会と決して無関係ではなかった。内向きで互いの足を引っ張り合うような交わりも、教会とは無縁ではなかったからこそ、このようにパウロは諫めようした。
 サラは、このような悲しい振る舞いの一歩手前に立っていた。己をあざ笑うことは、己に連なる者、支えてくれた者をあざ笑うことであり、ひいては神をもあざ笑うことだからだ。だから御使いを通して、主はアブラハムに言う。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。内容は極めて具体的で、終末論的な響きを伴う。この断言にサライは恐ろしくなり、前言撤回を試みる。「サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『わたしは笑いませんでした。』」恐怖のあまりの虚偽答弁。しかし御使いは断言する。「いや、あなたは確かに笑った」。この恐れに満ちたやりとりの中で、サライの悲しい薄ら笑いが、主の定められた時には喜びの笑いへと変えられる。イサクとは「笑い」を意味する。神の約束への喜びと、神自らとの交わりが回復する。サラがアブラハムとの間に授かった子はイサク唯一人だが、この幼子が、老いたサラの将来を拓く。
 神なきモラルハザードが世に満ちるならば、私たちには神の前での日毎の態度を、あたかも鏡を見るかのように交わりと礼拝で確かめるわざが求められる。愚かな振る舞いに及ぶ私たちが、すでにイエス・キリストの恵みに受け入れられているとの出来事の確認。失意のサライに希望が与えられ、混乱する教会に神の祝福と未来が備えられる。世が闇に包まれるほどに、私たちは世の光として神様に用いられるからだ。

2017年7月23日日曜日

2017年7月23日「二人の主人に仕えられないわたしたち」稲山聖修牧師

聖書箇所:『創世記』18章20~33節、ローマの信徒への手紙1章18~24節

 高度経済成長期、飢えの記憶を忘れようとするかのように日本は戦後の復興を急いだ。他方で教会は別の尺度を掲げてきた。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)。かの時代に教会には多くの女性・こどもたち・社会が求めるのとは異なる特性をもつ人々が集まり「人はパンだけで生きるのではない」との言葉を味わった。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」との言葉で「富」と訳されるのは「経済的な豊かさ」というよりも「富を司る偶像・マモーンの神」。マモーンにひれ伏して幸せになれるとの考えが新約聖書の記された時代にはあった。
 旧約聖書にある族長アブラムと甥のロトと物語。豊かになった争いを調停するために、アブラムとロトは別の道を行く。ロトが選んだのは見渡す限り潤っていたヨルダン川流域の低地一帯の都市国家ソドム。
 ソドムは豊かさが却って災いし、ヨルダン川流域の都市国家同士の略奪戦争に絶えず晒される。人心も荒廃し、人々は刹那的な享楽の虜となる。まさに「神ではなく、マモーンにひれ伏す町」。宇宙万物の創造主であるアブラハムの神はどのように向き合ったのか。
 「主はいわれた。ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降っていき、彼らの行跡が、果たして私に届いた叫びの通りかどうかを見て確かめよう」。宇宙万物の創造主はソドムを直ちに裁くこともできたはずだ。けれども神が完全であるほど、軽々しくその裁きのわざを振るわない。神は暴君ではない。自然災害や天変地異も神の裁きであると理解された時代、アブラハムは根本的な問いを発する。アブラハムはソドムにマモーンを拝む者がいたとしても、正しい者がいたとするならどうするのか、神に仕える者がいたとするならばどうするのかと迫る。繰り返される問答の中、10人しか正しい者がいなかったならと問い、主なる神は「その10人のために私は滅ぼさない」と応じる。
 『ローマの信徒への手紙』の今朝の箇所では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。なぜなら、神について知り得る事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地はありません」と厳しくパウロが神の審判について語るとき、私たちはこの手紙がローマのキリスト教徒に向けられており、神との関わりに開かれてなおも、どっちつかずの態度に揺れ動いている者がいるのを前提にしている。なぜこのような諫めをパウロは語るのか。「そこで神は、彼らの心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」。人の身体を、神の御霊の宿る神殿としてパウロは理解する。マモーンとの関わりの中で神殿を汚すのは、神の冒涜に留まらず、人の在り方や教会の交わりを歪めることをパウロは知っていた。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。神の賜物としての富に関わるならば、それは神に仕えるため、証しするためのもの。私たちはもはや二人の主人には仕えられない。だから安心して誘惑に満ちた世に漕ぎ出そう。「われらを試みに遭わせず悪より救い出し給え」との祈りはすでに聞かれている。

2017年7月16日日曜日

2017年7月16日「わたしは福音を恥とはしない」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記16章1~14節、ローマの信徒への手紙1章16~17節

私たちが公には語りづらい物語を旧約聖書は堂々と書き記す。旧・新約聖書の物語を一貫するのは天地の造り主である神であり、その神が世に遣わした救い主が軸となる点。だから聖書は時に私たちの道徳観を突き破るように、理想化された人間像をたたき壊すようなドラマすら描く。
今朝のアブラムとサライ、そしてハガルの物語もそのひとつかもしれない。族長アブラムへの祝福の約束にも拘わらず妻のサライは不妊の女性とされた。神の約束の成就の道筋は秘義に属する場合もある。そして人はその成就を待ちきれずにあらぬ行いへと及ぶ。サライはハガルというエジプトで得た女奴隷をアブラムに遣わす。これはハガルにもサライにも辛い判断だ。「主はわたしに子供を授けてはくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかも知れません」。このサライの思いつめた申し出は、アブラムがカナン地方に住んでから十年後であった。人生が今よりも儚い時代の十年。どれほど長く辛かったことか。
しかしこの憂いを意に介さずハガルはいのちを授かる。世継ぎを授かったことは喜びではあるが、サライにはわが子ではない。張り裂けんばかりの思いは、まずは夫のアブラムに向けられる。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身籠ったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」。この言葉には、ある鍵が隠されている。サライが思いの丈をぶつけるのは夫のアブラムだ。次いでサライは「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」と叫ぶ。サライは側女ハガルに直接思いをぶつけはしない。裁くのは人ではなく、主なる神。思い乱れてもサライはこの一点を外さない。アブラムの答えは「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい」。アブラムが正妻と側女の問題に立ち入ることになれば、問題は余計に複雑になる。アブラムは黙することで問題の源は私にあると語る。
その後サライはハガルを虐める。サライのもとから逃げるハガルは、未来に開かれた主の御使いとの出会いを経る。御使いが問うには「サライの女奴隷ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとするのか」。「女主人サライのもとから逃げているところです」とハガルが答えると、御使いは女主人のもとに戻れと命じた後に「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と約束する。これはかつて主なる神がアブラムに交わした祝福の約束と内容上同一のものだ。神の祝福の前には性差や階級のような一切の生活状況が問われない。続いて身籠ったいのちの名前が刻まれる。「イシュマー・エル」。「エル」とは神を意味する。「イシュマー」とは聞く、あるいは聞いた、を意味するヘブライ語。神がこのとき何を聞いたのか。最も運命に翻弄された、女奴隷ハガルの苦しみであり悩み。旧約聖書の神は最も虐げられた者の悩み、苦しみ、悲しみに耳を塞ぐことなく、そして何らかのわざを行わずにはおれない。それが新しいいのちの名前となる。
この物語をイエス・キリストは幼い時から味わった。そして使徒パウロもこの物語を踏まえ、次のように書き記す。「わたしは福音を恥とはしない」。要となる言葉は「恥」。「私は福音を恥とはしない、それは信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」。パウロは様々な辱めを身に負ったが、それを全て十字架のキリストの苦しみに重ねた。ハガルが受けた辱めと悩み。神の力は他者には語りきれない痛みを通しても私たちの身に及ぶ。この痛みを祈りのうちに分かち合える交わりは、キリストを中心に広がるのだ。

2017年7月9日日曜日

2017年7月9日「神から託された、果たすべき責任」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記13章1~13節、ローマの信徒への手紙1章8~15節

アブラムは親族間の争いにあって乾坤一擲の手を打つ。それはロトに和解の提言を族長自ら行い、族長の権利である部族の進む道を選ぶ決断もロトに委任する。争いは貧しさからだけでなく過剰な豊かさからも生まれる。しかもそれは豊かさでは克服できない質の悪いものである。神に選ばれたアブラムはその問題を見抜いていた。その結果、ロトは肥沃なヨルダン川の低地一帯を選び、アブラムはロトの進む先に比べれば荒れ地の多いカナン地方に進んだ。ロトの選んだ豊かな土地は多くの罪に溢れていたというから、その判断は浅はかだったのかも知れない。
ところで『ローマの信徒への手紙』が執筆された頃の教会には福音書も何もない。有名な使徒だけではなく、名もない多くの伝道者たちがイエス・キリストの教えを伝えている。文字通り散らされているような具合ではあるが、一見すればバラバラな集いの間に網の目状の交わりがもたられる。神が備えたもう、交わりのネットワークがあるからこそ、パウロは神への感謝を書き記す。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に伝えられているからです」。族長物語の上を行く広がりが記される。「全世界」と訳される「コスモス」とは秩序づけられた宇宙全体をも示す言葉。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が明かししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。パウロは実に情熱的にローマ訪問の願いを語る。この願いは実際にはローマへの護送で実現する。けれどもそれはパウロには喜びだ。なぜパウロはローマへの訪問を、我が身の安全に代えてでも望むのか。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」。この責任は誰から託されたものなのか。それはアブラムに働きかけたのと同じ神。そしてアブラムの世には現れてはいない救い主・イエス・キリストによる。「ギリシア人にも未開の人にも」。聡明なギリシア人とは異なり、一方で未開の人々とはその時代では「バルバロイ」(言葉の乱れた人々)と蔑まれた、さまざまな迷信に囚われ、文字すら知ることのなかった、おそらくは地中海を囲む地域の先住民族であろう。一口に異邦人と称しても実態は分断と諍いがそこかしこにある。その後には続くのは「知恵のある人にもない人にも」。「知恵のない人」とは英語ではfoolishとなる。単に知恵がないだけでなくて、品がなく、善悪の判断基準やタイミングを見極める力、あるいは事柄の重さ軽さの見極めが立たない愚かな人々。パウロの目指した異邦人伝道で出会う人々には、愚かさをもとに分断されがちな人々が大勢いた。けれどもパウロは特定の相手にだけ責任があるとは言わない。なぜならこの全ての人々には、物理的・文化的にはどれほど距離や反目があろうとも、イエス・キリストに示された和解と交わりが成り立っているからだ。
この世の交わりにあって肩を落とすことがあっても、神さまから託された責任に私たちは背中を押されている。この責任は裏を返せば、主イエスにあって備えられた聖霊の追い風である。だから私たちは、往生際悪く、神の愚かさに徹することができる。『ローマの信徒への手紙』に前後して記された『コリントの信徒への手紙Ⅰ』には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とある。族長アブラムは浅はかなロトを決して見捨てずにいのちを救うべく力を尽くした。イエス・キリストにあって与えられる聖霊は実に力強く、不撓不屈の力となってくださる。臆せず新たな課題に常に挑む者でありたい。

2017年7月2日日曜日

2017年7月2日「神の恵みの選びは全てを包む」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記11章31~12章4節、ローマの信徒への手紙1章1~7節
 
「神の選び」との言葉は様々な誤解を重ねられた。この言葉が語る者や教会組織そのものの自己礼賛に用いられるならば、知らずしらず教会は深い堀や壁をめぐらし、他者に仕える力を失う。聖書のメッセージは、その壁を破り、誰かとの関わりを想起させ、感謝すべき関わりに目覚めさせ、私たちを謙遜に導く。
 創世記の12章には、信仰の父と仰がれるアブラハムが「アブラム」として登場する。その名が現れるのが、11章のノアの息子セムの系図、そしてアブラムの父であるテラに始まる系図だ。ところで、信仰の父と仰がれるのはアブラムであるにも拘らず、その父テラから物語が始まるのは何故か。
 実はアブラムにもまた、当人の自覚としては神の招きを受ける前の時期があった。同時に、神自らはアブラムを招きに応じる前からその祖先の時代から知っていた。なぜならば、旧約聖書に記される神は、宇宙・万物の創造主でもあるからだ。その中で描かれるアブラムの父テラ。創世記の11章31節では、「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二〇五年の生涯を終えて、ハランで死んだ」とある。都市国家ウルにまず注目したい。
 都市国家ウルは実はチグリス・ユーフラテス川流域でも繁栄を極めた。その土地で農業を営むには灌漑農法が必要だった。その結果、一時期には一粒の麦から76,1倍もの収穫が得られるまでになる。但し水が蒸発する場合、土の中に含まれる塩が引き出される。この塩害によって麦の栽培が困難になり、国力を失ったウルは滅亡する。テラの旅の始まりはこの出来事と決して無関係ではなかったことだろう。かりそめの安定から身を起こし立ち上がり、羊などを追いながら旅を続けるという厳しい生活環境に身を投じる道を踏み出したのがアブラムの父テラ。テラ自らは神の招きを自覚することもなくハランの地で生涯を終えた。彼はアブラムが宇宙・万物の主なる神に出会う道筋を整えた点では重大な役割を成し遂げた異邦人であり、アブラムとの関わりの中で神に祝福されていた。
 この話に立つと、仮に私たちが、家族の中で一人教会に足を運ぶという身にあったとしても、あるいは人には話すのが困難な事情を抱えながらこの場に集い得たという身にあったとしても、聖書に記され、アブラハムを選んだ神の愛は、その方をも包んでおられるとの理解が拓かれる。他に選びようのない道を歩む人に先立って困難な道を開拓してくださるのが、主イエスがメシアとして証しし、パウロが繰り返し噛みしめた神の恵みの選びの出来事である。
 『ローマの信徒への手紙』冒頭には、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選びだされ、召されて使徒となったパウロから」とある。救い主はただ一人、まことの人の姿となったイエスである。そして「神の福音のために選びだされ」と続く。パウロ最大の関心事は、「わたしたちの主イエス・キリスト」にある。そしてこのメッセージは、その時代としては、直接にはこれは、パウロの導いた教会のあったシリアからも、歴史的にイエスのわざを知っていた使徒の拠点であったエルサレムからも遠いローマに向けられている。その一方で、時を超えてこの場に集う私たちにもまた向けられている。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。このパウロの挨拶は、私たちを全て神の恵みの選びの出来事の中に包み込むのだ。

2017年6月25日日曜日

2017年6月25日「祝福された最後の働き」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録28章23~31節

 トルソーという彫刻の類型。完全体ではなく腕や頭部を欠損した作品を意味する。しかしそのような欠けがあるからこそ、ダイナミックな動きに思いを馳せることができる。
 パウロの伝道も様々な欠けに満ちていた。パウロは元来ユダヤ教ファリサイ派の律法学者で教会を迫害していた。また異邦人伝道はエルサレムの使徒から警戒されていた。そのような傍流のパウロがなぜ今日に至るまで一定の名を留め、その書物がルターやバルトの目覚めに繋がったのか。パウロは一貫して世界伝道者であった。多くの言語に通じ、ローマ帝国の市民権があり、そして旧約聖書の解釈に通じていた。一切の名声を投げ打ち傍流に留まったパウロだからこそ異邦人からの支えは思わぬ所から訪れた。遺された多くの文書との対話を経て今日の新約聖書が完成したとも言える。『ローマの信徒への手紙』11章にはイスラエルと異邦人の関わりの喩えとしてオリーブの接木を語る。根を下ろした野生のオリーブはイスラエル、接木されたのは異邦人キリスト者。そして『コリントの信徒への手紙Ⅰ』3章によれば「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神」。パウロのこのようなメッセージから拓かれる展望とは何か。
 第一にはかつてイスラエルに敵対した部族もキリストの福音に包まれることだ。『出エジプト記』でヘブライ人を虐げたファラオも異邦人。また、イスラエルの民と争うアマレクやペリシテの民、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アッシリア人、バビロニア人もまた異邦人。これらの異邦人にもキリストの福音の力が及び、全ての民を包む。第二には「時」を超えた福音の広がりがある。パウロの記したテキストは地球規模で世界を覆うことになった。中東から遠く離れた極東の地で福音が宣べ伝えられると誰が想像しただろうか。このように、旧約聖書を縦横無尽に解き明かしたパウロとその影響を受けた人々のわざは、世のいたるところへと広がった。本日の箇所ではパウロは宿舎にやって来た大勢のユダヤ教徒相手に朝から晩まで力強く証しを立てたとある。旧約聖書を用いて語りかけた結果、ある者はパウロの言うことを聞き入れ、イエスが救い主であると認めた。パウロはイザヤ書の6章9節から10節を引用し、異邦人に向けられた救いを語る。
 使徒言行録の書き手は次のように記して筆を置く。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。それではその二年を経てパウロはどうなったのか。殉教したとの話が有力だ。
 この証しの群れに泉北ニュータウン教会も立つ。かつてドイツ語圏の教会関係者や神学研究者と語らった際、「日本の教会員は質実ともに実によく教会を支えている」と感嘆された。また同時に、日本の心ある教会は、かつて私たちがナチスの時代に迫害したユダヤ教と同じ状況に置かれているとの言葉も頂いた。これは私たちの信仰生活が絶えず地域の文化や人間関係との間にある葛藤を踏まえての話。その葛藤こそ教会の力の源だとの言葉に感じ入った。私たちの信仰はそのものとしてはまさにトルソー。私たち一人ひとりのアイデンティティーが教会に深く根を下ろしているかどうかは、絶えずアブラハムの神が吟味されている。『ガラテヤの信徒への手紙』でパウロが記すとおり、イエスの焼き印を私たちが身に帯びていることは、同時に私たちがアブラハムの神のものであることを示す。私たちがキリスト教という宗教を選んだのではなく、神が私たちを招いてくださった。パウロの最後の働きを祝福していた神の愛に包まれ、ひらすら歩んでまいりましょう!

2017年6月18日日曜日

2017年6月18日「思いがけない助けと勇気の中に」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録27章17~22節

使徒パウロの手紙の中には、思わず頷いてしまうような人間臭さを赤裸々に記した箇所が登場する。『コリントの信徒への手紙Ⅱ』11章23節でパウロは自らの労苦を切切と訴える。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟達からの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。但しパウロの場合、このような労苦を次のように締めくくることにより、彼ならではの意味づけを行う。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくならば、私は心を燃やさないでいられるでしょうか」。パウロの労苦には「誰かのために」との視点が色濃く反映される。
パウロはエルサレムでの宣教活動の最中、エルサレム神殿境内での逮捕が不当であったと皇帝に直訴し護送され、困難を極めた旅路の果てにローマに入る。使徒言行録でパウロは雄弁に逮捕の不当性をローマのユダヤ教徒の代表者に訴える。かつてパウロはサウロとの名前の下、ユダヤ教の律法学者として教会を迫害する立場にいた。しかし復活したキリストの声を聴く出来事の中で、律法学者として得られた特権を何もかも投げ打ち、先ほど申しあげた労苦を経て、ローマに到着した。「石を投げつけられたことが一度」とは石打刑で処刑されかかった可能性も暗示する。
しかしローマで出会ったこのユダヤ教徒の反応はパウロの予想を裏切った。「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい」。この反応は実に誠実だ。使徒言行録の物語の流れで言えば、キリストにおける神の愛の力である聖霊の働きが隠されている。パウロはこの出会いの前には相応の覚悟をしていただろう。その予想は良い方向で裏切られる。
こうした出会いの連続の中、パウロは「思わぬ助けと勇気」を感じてきたに違いない。そして深い感謝の念に満たされていただろう。『ローマの信徒への手紙』には、次のように記される。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」。冒頭にあるのは何かの指南ではなく、すでに神の恵みの中に道が備えられていることへの感謝。パウロより前に道を整えていた無名の人々がいたからこそ、まずはパウロの考えていることを直接聞きたいとの声が、本来は敵対するはずのユダヤ教徒の側からあがる。何の小細工も駆け引きもない。
教会の歴史には様々な破れや紆余曲折がある。泉北ニュータウン教会の牧師も教会員を傷つけているかも知れない。また時には私たちの間に騒々しい混乱が起きるかも知れない。礼拝の後に遣わされる各々の場にあっても同様だ。しかし「あなたの考えていることを直接聞きたい」との誠実な声があるならば、私たちは神の愛に裏づけられた勇気を新たに備えられる。「誰かのために」という生き方は、完結することなく、絶えず誰かに伝えられ、水面に広がる波紋のように広がっていく。キリストにあって備えられる、思わぬ勇気と助けを信頼し、新しい一週間を始めよう。

2017年6月11日日曜日

2017年6月11日 こどもの日(花の日)礼拝「どんなときでも」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書5章38~41節.稲山聖修
 
 今日のお話の題は、この後歌う讃美歌の題と重なります。この讃美歌の歌詞を作ったのは高橋順子さんです。今から58年前に生まれて、ちょうど50年前に神さまのもとに逝かれました。7歳と聞きましたから、保育園を卒園して小学校に入学したころに神さまのもとに召されたこととなります。大人の目から見れば短い一生だったと可哀想になるかもしれませんが、順子さんが7年間を一生懸命生き抜いたことを考えれば可哀想などと簡単にはいえません。全国の教会には教会学校や日曜学校といった集まりがあります。順子さんは福島市・福島新町教会の教会こども会に出席していました。元気なお友だちだったそうですが、ある日大きな病気に罹っていることが分かりました。骨の癌。今の時代では治せない病気ではなくなりつつありますが、今から50年前では治療といえば悪くなったところを骨ごと切りとるほかありません。手にできれば手を失い、足にできれば足を失うという病気です。手術の日が近くなったとき、順子さんは強い痛みと恐怖の中で必死に祈り、その祈りを詩にしていきました。それが「どんなときでも」という讃美歌になり、順子さんが神さまのもとに旅立たれた後も、入院したり、病気になったりして悲しい思いをしているお友だちを励ましています。
 今日の聖書の箇所では、病気で死にそうだ、といわれていた女の子を助けにイエス様がお弟子さんと一緒に旅をしたというお話が記されます。イエス様はわたしたち一人ひとりを大切にしてくださいます。けれども、実際に女の子のおうちについてみたら、大人たちは泣きわめいています。大騒ぎです。「女の子が死んでしまった」「もうおしまいだ」と嘆くばかりです。そんな中で、イエス様は「あなたがたはどうして騒いでいるのか。この女の子は眠っているだけだ」といって、「さあ、起きてごらんなさい」、いや、イエス様は地域の言葉を用いましたから「起きや」と、女の子の手をとって語りかけました。周りの大人はだめだ、だめだと騒いでばかりでしたが、イエス様は最後まで神さまとともにいました。女の子は立ちあがったのです。
 このように、こどもたちの病気を治しながら旅したイエス様でしたが、女の子のいのちと引き換えになるかのように、イエス様は十字架におかかりになって殺されてしまいました。骨の癌は身体の奥からの痛みで苦しくて仕方がないと申しますが、十字架の苦しみはそれ以上の痛みです。誰も助けようとはしてくれないからです。けれども十字架で死んでしまった後、イエス様が大好きだった人たちの間に、イエス様が甦った、復活したというお話が広まりました。聖書には、お墓の中から出てきたイエス様が初めてあった人に挨拶する様子が記されています。「おはよう」って挨拶してくださるのです。そしてイエス様を失って悲しんでいた人々を40日にわたって慰め、励ました後に、天に昇られました。今度は弟子たちの番。弟子たちに神さまの力がそそがれて、イエス様を慕う人々を集めて教会をつくり、今日まで続いているのです。
 今日は順子さんの作った讃美歌を歌った後、風船で遊びます。稲山先生はこの遊びがとても好きです。高校生だったころ、病院で風船を使って遊んだことを思い出すからです。世界にはつらい思いや苦しい思いをしているお友だちは少なくありません。けれども風船が空高く飛んでお友だちのところに届くように、私たちのつながりもいろいろなお友だちにつながって苦しみや悲しみを分け合い、喜びや楽しみに変えていくことができます。神さまの愛は、私たちにそんな素敵な力を備えてくださるのです。私たちの見えないところにいるお友だちのために祈りましょう。

2017年6月4日日曜日

2017年06月04日「愛の炎に照らされた道」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録28章11~16節

 使徒言行録での「聖霊に満たされる」「聖霊の慰めを受ける」「聖霊が降る」「聖霊が告げる」「聖霊に送り出される」との記事は全部で10箇所。「聖霊が降る」と記されるのは10章44節と19章6節しかない。この表記からは、聖霊降臨の出来事は再現不可能な仕方で生じることが分る。意外にも使徒言行録の書き手はエルサレムの教会を拠点とするペトロを軸とした使徒への聖霊の働きを強調する。パウロその人のわざに聖霊が降るのは一度だけだ。他方パウロの歩みに際して多く用いられるのは、「私たち」という匿名かつ一人称複数の言葉。使徒言行録の書き手たちの、パウロを孤独にせずにともに行くべきだったとの深い負い目が伝わる。
伝道にあたってパウロに映った世界はどのようなものだったのか。使徒となる前、パウロはサウロと名乗り、別の使徒ステファノの処刑に賛成した。彼は熱心な教会の迫害者であった。しかし同時に迫害を受けた者からの申し開きからイエス・キリストの言動を聞かざるを得なかっただろう。迫害を受ける者の表情はステファノと同じく輝きながら縄に繋がれエルサレムに連行されていく。その場に立ち合う中、サウロは復活したイエス・キリストに出会う。即ち「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」と呼びかける声とともに響く「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」との声。パウロには主イエスとの出会いは復活のキリストとの出会いから始まる。そこに画期的な特徴がある。ペトロを始めとしたエルサレムの使徒の歩みは真の人ナザレのイエスへの負い目から始まる。復活の光の中から十字架のキリストに思いを馳せるパウロとはスタート時点が異なるのだ。
 本日の聖書の箇所では、護送の船旅の果てに立ち寄ったマルタ島でパウロが三ヶ月滞在したことが記される。三ヶ月という時間は護送する役人達にも護送される囚人達にも実に長い期間であり、この間にパウロに関する伝承が生まれてもおかしくはないとの指摘もある。逆に言えばこの期間にパウロにはこれまでの信仰の旅路を振り返る、時間が期せずして授けられたとしてもおかしくはない。越冬の後には、船旅の守り神とされたディオスクロイを船首に掲げた船に乗り込み、イタリア沖のシシリア島のシラクサを経て、イタリア半島の南にあるレギオンに寄港、翌日さらに北上し、プテオリに到着する。プテオリはこの時代のローマにとっては最重要の港湾都市であり、エジプトの穀物の荷揚げ港。この地にはすでに信仰の兄弟たちがいてパウロは七日間留まったという。すでに兄弟たちが来ていたということは、ローマの教会にすでに知らせが伝わっていたことを示す。迎えは二つの群れからなり、ローマから64キロ離れていたアピイフォルムと、49キロ離れていたトレスタベルネから遣わされた人々。この箇所からパウロの生涯最後のとりくみであるローマへの伝道の旅が始まる。
 使徒言行録によればパウロの歩みは決して主流ではなく傍流だった。けれどもパウロの働きなしには、イエス・キリストの歩みは世界に広まらなかった。異邦人である私たちにも伝わらなかっただろう。パウロの建てた教会は「変わった教会」との声をエルサレムの主流派の教会から受け続けた。道なき道を行くキリストの道の開拓者の姿がそこにある。神の愛の炎に照らされた新しい道を開拓するなら誹りや孤独を恐れてはならない。必ずその人を支える人が集うはずだ。神の愛なる恵みを基とする、聖霊降臨の出来事が私たちを深く包んでくださるから。

2017年5月28日日曜日

2017年5月28日「全世界に広がる喜びの輪」稲山聖修牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章44~51節

「キリストの昇天」の記事は『ルカによる福音書』の最後と『使徒言行録』の始まりにも記される記事。しかし二つの文書の表現はだいぶ異なる。『使徒言行録』で弟子は世の国としてのイスラエルに強くこだわる。また、何が起きたのか分らないまま昇天するキリストを見つめる。しかし『ルカによる福音書』の場合、主イエスは弟子たちに、今日でいう旧約聖書の文言は必ず実現への道が今始まったと宣言する。
続けて主イエスは聖霊との言葉をはっきり用いないものの、御自身の復活と、悔い改めの出来事が、イスラエルの民の境界線を超えて、世界中に宣べ伝えられるばかりではなく、あらゆる格差やあらゆる階層、言語、家族、身体の特性を包みながら伝えられることが記される。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。弟子達はこの出来事を目撃し、その証しを立て、その証しがさらなる証しにつながるとの理解が記される。軸は次の一節。則ち、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」。「都に留まれ」とは『ルカによる福音書』ならではの言葉である。
福音書でのエルサレムは、主イエスには「戦いの場」であった。エルサレムの町に入るまでは、主イエスは癒しのわざや、人々に実に潤い豊かな救いの物語を語り聞かせるという、まさに善き羊飼い主イエス・キリストの姿が描かれる。しかしエルサレムが舞台となると状況は一変する。主イエスのわざに慄く人々が論争を挑み、罠を仕掛ける。そして主イエスは「苦難の僕」の道を歩む。十字架の道行きがそこにはある。エルサレムは、聖霊降臨の出来事が始まる場であると同時に主イエスが十字架につけられるという苦難の頂点の場でもある。
けれども主イエスはエルサレムの町に留まれ、都に留まれと語る。それはまさに自らを十字架につけた罪深いイスラエルの民の歴史を通して、また弟子たち自らのライフストーリーを通して、神のわざが世に臨むためである。エルサレムの町そのものが聖なる町ではない。弟子たちの歩みそのものが聖なるものではない。復活されたイエス・キリストとの関わりにおいて始めてエルサレムの町は、キリストの福音の出発点となる。「聖なる都である」のではなく「聖なる都になる」のだ。これが私たちの信仰生活にも重なる重要な事柄だ。
続く文章は使徒言行録にはない特別な記事だ。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」。「そして祝福しながら彼らを離れ、天にあげられた」。メシアは神の力によって天にあげられた。その間絶え間なく主イエスは弟子たちを祝福している。教会を祝福し、世をも弟子達の働きの故に祝福される。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめ讃えていたとある。
イエス・キリストの昇天の出来事を通じて、世と教会は新しい時代を迎える。それはイエス・キリストのわざを直接仰ぐことのない時の幕開けを意味する。但し、それは恐怖に満ちた暗黒時代の到来ではない。神をほめ讃える歌がエルサレムの神殿の境内から全地の民に及ぶ時代の始まりである。キリストの昇天から神の国の訪れという中間時にあって、教会が向き合う課題は数え切れない。けれども主イエスはそのさまを全て御覧になり祝福されておられる。破れや働きの小ささや弱さにも拘わらず。光あるうちに光の中を進んでいこう。

2017年5月21日日曜日

2017年5月21日「父の招きに喜ぶこの日」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書6章1~15節

 主イエスの世、祈りの言葉はエルサレムの祭司階級に独占されていた。民衆から尊敬されていたはずのファリサイ派も、庶民と近い距離にあって常に祈りを献げていたとは言い難い。ルカによる福音書は18章9節以降でファリサイ派の祈りと徴税人の祈りを語る。「ファリサイ派の人は立って心の中でこのように祈った」。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った」。ファリサイ派の祈りは交わりの中での態度表明ではないばかりか、その実は他者との比較の上に成り立つ事実上の業績報告だ。一方で徴税人はそのものとしては祈りとは表記されず「言った」と記され、胸を打つという言外の動作を伴う。それは「罪人の私を憐れんでください」との言葉に厳粛な響きをもたらす。
 本日の箇所では主の祈りの原型が記される。利己的な願いと祈りの分別がつかなくなる私たちには主の祈りはいわば命綱。病床。不条理な苦しみ。疲労。嘆き。その渦中で父なる神との関係を確かめられる祈りだ。さらに祈りとはその究極的な前提として隠されており、それは隠れたところにおられる神に向けられている。本来は人に聴かせるものではなく、見せびらかすものでもない。注目すべきは、主イエスが人々に伝えた祈りには「神」との言葉が登場しないところ。徴税人、あるいはその徴税人のようにあえて孤立を選び、名誉よりも誹謗や中傷の言葉を選ぶ弟子たち、あるいは困窮にあって分別すら忘れた人々のためにも、主イエスは神を、あえて「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける。求められるのは、痛みを御手に包んでくださる天の父に全幅の信頼を委ね讃美することだ。讃美されるのは人ではない。天の父だ。次なるは天の父の国の訪れを求める祈りであり、天の父の思いとはかけ離れていく世においてこそ、その思いが実現するようにとの願いである。神の御心の実現には幾世代が必要か。けれどもそれは必ず完成するとの約束に立つのが主の祈りだ。
 この祈りの後、切迫した暮しをめぐる祈りが記される。必要な糧を今すぐ、直ちに。この切実な乞い願いは、貨幣経済が世に生まれる前から献げられてきた。また、天の父への讃美の後に初めて献げられる祈りでもある。荒れ野での誘惑の場面で悪魔が真っ先に主イエスに働きかけたのは食を巡る誘いであった。だからこそ私たちは天の父への讃美から祈りを始める。
第四には赦しが祈りに数えられる。誰かとの関わりにある私たち。天の父との間に破れを抱え、負い目を覚えている以上、大切な人との交わりにあってなお私たちは破れを傷みとともに思い起こさざるを得ない。負い目を赦してくださいとの祈りがある以上、赦しが生やさしいわざではないと分る。けれどもわたしたちは赦せるように願い続けなければならない。憎しみは何も生まないからだ。第五には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。マタイによる福音書の場合、主の祈りはこの祈りが最後に献げられる。それは12節までの祈りが絶えず献げられるならば、誘惑や悪は自ずと遠ざかるからだ。そして最後、15節には今一度赦しが言及される。赦しは困難だ。けれども時を重ねてでも赦さなければ、私たちは平和を築きあげることができない。
 全き人の子・ナザレのイエスは血縁ある父との関わりが希薄だ。その孤独を知るがゆえに、父のイメージを神に重ねて呼びかけ、救いの訪れをより確かなものとして伝えようとした。ナザレのイエスが救い主・キリストであるとの宣言に包まれるとき、私たちは父なる神に招かれていることを知る。どのような人も。これこそ私たちが依るべき唯一の尺度だ。この尺度に立つならば、私たちはどんなときでもその喜びを忘れない。

2017年5月14日日曜日

2017年5月14日父母の日礼拝「共に生きる恵み―親子であること、親子となることー」大阪キリスト教短期大学 森田美芽教授

聖書箇所:ローマの信徒への手紙 12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

本日の主題は3つあります。第一に親であることの問題、第二に、子どもたちの置かれている現状と子を受け入れるということ、第三に、その関係性をいかによりよいものにしていくか、ということです。まず親であること。私たちはみな、未熟な親です。親であることは、たとえば保育士さんなどとは違い、1年365日継続する関係性であり、もともと容易なことではありません。にもかかわらず、私たちは親となることを許されているのです。足りない者であっても、親となり、親であることを神さまからいただいた者として、その恵みを分かち合える者です。
 親が親であろうとするとき、私たちはしばしば、自分の親との間に解決されていない葛藤を持っています。 私たちが親子であるとき、忘れてならないことは、子どもは親の願望を代理で実現する道具ではなく、ましてかわいがるだけのペットではなく、私から独立した一人の人格であり、神が与えられた尊い一人の人間であり、やがて私たちにとっては、人生の最もよき友となり得る存在である、ということです。私たちは、親としてどうかだけでなく、人としてどうかが問われています。私たちは子どもの姿を通して、愛することのできない自分に気づきます。そこで私たちは、実は傷ついて助けを欲している自分自身に気づきます。私たちがその傷に気づき、癒しを願うとき、真の神であられる方の癒しと救いが自分のものになります。イエス・キリストは、私たちの弱さを理解できないような無慈悲な方ではありません。
さて、子どもたちの現状で、注目されるのがいじめの問題です。いじめは軽い冗談の延長から、仲間同士の結束のため、特定の人物を対象にいじめ行為を行う場合や、さらにエスカレートすると、犯罪性を帯びることもあります。なぜいじめるのかといえば、結局仲間同士で盛り上がり、いじめることで痛快さや優越性を感じるから、というのが最も大きいようです。なぜ親や教師が気づかいかと言えば、被害者である子ども自身が、親や教師に知られることを何よりも嫌がる傾向にあるからです。子どもにとっていじめられるということは自尊心に関わり、自分がいじめられるような存在であることは、自分の自尊感情をひどく傷つけるものだからです。このいじめにあわないために、仲間たちの「目につく」ことを避けようとする傾向があります。それが「空気を読む」「同調し、個性を出さない」ことにつながります。このいじめに対抗するためには、幼少期から、自分が愛され、尊重されていると感じること、家庭の中では少なくとも、人格として尊ばれ、自分が何も言わなくても受け入れられていると感じることが力のもととなっています。
 第三に、これからの関係性について、何よりも「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」と言う関係は、親子というかけがえのない絆の中で生まれるものです。子が親を人として尊敬し、親は子を一人の人間として尊重する、互いに相手の成長と人格の完成を喜ぶ、聖書に描かれた家族への戒めが具体的なものとして意味を持ってくるのだと思います。

2017年5月7日日曜日

2017年5月7日「主イエスの背中を見つめて歩む」稲山聖修牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ12章3~13節

 こどもさんびかには大人のあり方を問われる作品がある。例えば「どんなときでも」。作詞は高橋順子さん。骨肉腫の手術の数日前に書いた詩に、召天後メロディーがつけられ歌われるようになった。八年間の生涯を振り絞って作られた詩を私たちは用いている。
 この讃美歌からは人生には限りがあり、終わりがあるという厳粛な事実が読み取れる。この事実は高齢者だけの現実ではない。それは老いも若きも包み込む出来事だ。それゆえにこそ、教会はより包括的な働きを目指さなければならない。その理由は教会の立つところが、そしてキリスト教信仰の核が、イエス・キリストの復活への確信にあるからだ。被造物としての私たちは死に至るという厳粛な事柄に勝る出来事をイエス・キリストが明らかにされ、死に対する命の勝利が謳われたところから始まるのが、私たちの歩み。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか」(『コリントの信徒への手紙Ⅰ』15章54節)。このパウロの言葉に立てば、葬儀をめぐる問いが終末の時、神の国の訪れの時への備えとしての意味に転換されなければならない。
 私たちの信仰生活にはイエス・キリストと向き合う面と、復活したイエス・キリストの背を見つめて追いかける面がある。「キリストに従う」わざの内実だ。旧約聖書では神の背中を仰ぐという表現は『出エジプト記』にある。旧約聖書では今、この時にあって、神と人とが顔と顔を合せることはできない。神の愛の力は破れに満ちた私たちには過分であるとの理解が垣間見える。
 けれども本日の箇所ではどうか。『出エジプト記』では神の力が及ぶときには被造物である人の命はリスクにさらされるが、イエスが主であるとの告白の際には、助け主・弁護者としての聖霊の執成しが働く。イエス・神・聖霊という三位一体の神の働きが今朝の箇所には簡潔に記される。そして教会を構成する人々の賜物が聖霊によって結ばれる。人と人とを結びつけているのは、定まらない気分や趣味判断、好みやプライドの問題や打算ではない。派閥や党派の問題でも勿論ない。4節から7節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全てのことをなさるのは同じ神です。一人ひとりに全体の益となるためです」とある。どの賜物が勝っているか、どの奉仕が優れているかをパウロは記さない。さらに11節からは「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人ひとりに分け与えてくださるのです。身体は一つでも、多くの部分から成り、身体のすべての部分の数は多くても、身体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分であろうと、皆一つの身体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。パウロの構想した教会がいかに多様性に満ちているかが分る。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」との言葉。初代教会にはヘブライの伝統に堅く立とうとする群れと、ギリシア語を用い、ヘブライの伝統には直接与しない群れには争いが絶えなかった。教会のわざは赦しから始まらずにはおれなかった。同時に「奴隷であろうと自由な身分であろうと」。そこには絶望的な身分・経済格差による交わりの断絶がある。けれどもパウロはそこに復活されたキリストによる一致と和解を説く。定型文としての信仰告白の芽生えとともに、読み書きのできない人もまたその信仰をもって義とされた豊かさ。私たちも包括的な礼拝共同体に立って神の国の訪れに備える群れを整えたい。

2017年4月30日日曜日

2017年4月30日「朝の食事をともにされるキリスト」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の復活物語。本日の福音書の記事に重なる話は、ルカによる福音書24章にもあるが、ヨハネの場合は弟子たちの関わりが実に丁寧に記されているところが異なる。弟子たちがキリストに従う原点ともなった湖畔が舞台であり、内容は弟子たちが網を捨てて主イエスに従ったという召出しの記事の繰り返しに見える。けれども決定的に異なるのは、弟子たちと語らう主イエスが、すでにキリストとしての姿をはっきりお示しになったところ。7節には「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然であったので、湖に飛び込んだ」とある。三度目の出会いであるにも拘わらず何の備えもできていない、その意味では何も変わっていない弟子たちの姿。けれどもイエス・キリストを見据えるならば、私たちは喜びとともに「全てが新しくされた!」と語らうことができる。それだけではない。復活したイエス・キリスト自ら炭火を起こして魚を焼き、パンも備えてくださっている。キリスト自ら炭火を起こし、魚を焼いてパンを備えてくださっている描写は特異である。旧約聖書の物語や新約聖書の他の箇所や物語でも、祭壇や食卓を整えるのは神ではなく人であるからだ。食材は漁師たちの日常の食事だが決して粗末ではない。その上でキリストは語る。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。有無を言わさない仕方でその場におられ、主は自ら備えた朝の食卓に弟子たちを招く。キリストとの関わりの下で、弟子は霊肉ともに養われ、交わりを回復し、新たな働きに備える。
教会生活に疲れを覚えて去っていかれる方はどの教会にもおられる。けれども忘れていただきたくないのは、弟子たちは一切の力みなしに、ペトロの無様な姿も含めて、復活の主に出会っていることだ。教会は聖人君子の集まりではない。けれども人の世に打ち勝つ神の恵みも変わらない。私たちの聴くべきメッセージは、噂でも世間体でもなく、イエス・キリストとの関わり方である。教会は聖書に記された神の恵みに、感謝とともに応えていく群れであります。私たちのために、自らを献げものとされた、神からの贈物である主イエス・キリスト。キリストこそが世にある私たちの暮しの土台、判断の土台なのだ。

2017年4月23日日曜日

2017年4月23日「いのちはキリストの平和とともに」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~29節

 ヨハネによる福音書には聖霊に関する記述が圧倒的に多い。この前提に立つと、キリストの復活の報せを聞いた弟子たちの狼狽にもまた神の力が及んでいることが分かる。つまり、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。弟子たちを捕えているのは、次は自分たちが捕縛され殺されるという恐怖。しかし同時にこの狼狽は、復活の報せを受けたからこその体たらくだったのかもしれない。恐怖だけが先立つのであれば弟子たちは逃げ去っているはずだ。けれども彼らは家に留まりつつ混乱している。この記事からは、復活の報せがキリストの消息に蓋をして、弟子たちに足止めを食らわせたという理解も可能だ。恐怖の中で立ちすくむ混沌とした状況。その中で復活したイエスが現れる。ヨハネによる福音書に記される弁護者たる聖霊の働きとともに。
 それでは主イエスは何を語ったのか。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。「あなたがたに平和があるように」。エイレネー・ヒュミーン。ギリシア語で記される平和、エイレネーはもともと戦争と戦争の間の暫定的な平和に過ぎないが、福音書の言わんとするところは神の平和でありヘブライ語のシャーロームだったはずだ。キリストの語る平和が脆くはないことは、主イエスが手と脇腹をお見せになったところにある。十字架につけられ、釘打たれた際の傷跡と、止めとして脇腹を槍で刺された傷跡。無残な傷があるのにも拘らず、弟子たちは主を見て喜んだとある。ヨハネ福音書で記される二度目の甦りの記事の中で、弟子たちはキリストとの出会いを素直に喜んで神の平和を与えられる。それは争いに打ち勝ち、死に対する恐れを消し去る喜びだ。教会もこの喜びに連なる。
 続く箇所で主は派遣の言葉を語るが、ここでも「あなたがたに平和があるように」と繰り返す。私たちは怯んではいけない。それは弁護者としての聖霊がいるからだ。そして「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。「息を吹きかける」とは、アダムにいのちを吹き込んだ神に重なるキリストのわざだ。弟子たちは新たにされていく。神お一人以外には出来ないとされた罪の赦しの権限すら与えられる。トマスの疑いでさえ「あなたがたに平和があるように」との三度目の言葉の中で耕され、確信へと深められる。
この一週間、私たちは決して種々の思い煩いから自由ではなかった。しかし主イエスはその諸々の真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と仰せになる。案じることはないと言われる。嘘と争いの報せに満ちた世に嫌気さえ覚える私たちに、主は聖霊を受けよと仰せになる。主イエスのいのちの勝利の言葉がこの週も響く。

2017年4月16日日曜日

2017年4月16日「復活の光、いのちの勝利」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章1~10節

 キリストの葬りにあって「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人」が描かれる。「身分の高い議員」とされる。ヨセフのピラトへのイエスの亡骸の引き取りの申し出は危ういわざ。十字架刑はローマ帝国への反乱者にのみ執行された、反政府勢力への見せしめも兼ねての刑法だからである。しかしアリマタヤのヨセフは承知の上で主イエスの亡骸を亜麻布に包み自分の墓の中に納めた。当時の墓地は家族単位で掘られたため、ヨセフはイエスを自らの墓に招いたこととなる。真の人キリストの死後に深められた絆を見る。
 しかしこの絆は、死してなおイエスを恐れる暴力に踏みにじられる。復活理解の相違による分裂を恐れる祭司長とファリサイ派の議員。もとより凡庸な総督ピラトはエルサレムでの騒動を役職上の事案として恐れるのみ。「人々は前よりもひどく惑わされることになります」という27章64節の言葉はピラトへの恫喝でもある。遺体を納めたアリマタヤのヨセフの墓は今やピラトの権限で封印され番兵が置かれた。いわば差し押さえられたのであった。
 受難日が葬りの一日目。安息日を挟んだ翌朝。マグダラのマリアと母マリアにとり、主イエスは救い主であり、愛する人であった。マルコによる福音書ではイエスの身体に油を塗るためにと、より具体的に記される。遺体そのものへの接触は汚れを意味した。とはいえこの二人の女性も、ユダヤ教の掟を冒すリスクを厭わない。この姿勢を踏まえ、マタイによる福音書ならではのキリストの復活物語が記される。キーワードは「主の天使」。大地震とともに墓に臨み、墓を封印している石を転がしてしまう。今朝の箇所での墓石は墓穴の蓋以上に、主の復活を恐れる人々が設けた封印だ。その封印は、主の御使いの力によって意のままにされる。番兵でさえも震えあがり、死人のようになった、とある。主なる神の力に拠り頼む者には命の息が注がれ、世の力に操られる者はその糸が絶たれる。世の暴力には目もくれず天使は女性に語りかける。その語りかけの最後にある「確かに、あなたがたに伝えました」はマタイによる福音書にしか記されない。
 「確かに、あなた方に伝えました」。神の力に満ちあふれたその言葉は新しい希望を備える。その希望のゆえに女性たちは喜ぶ。行く手に立つイエスは「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、ひれ伏す。女性達はイエスの足を抱擁する。十字架の絶望の先には復活の不滅の光がある。その光はいのちの温かさに満ちている。
マタイによる福音書の復活物語には、主イエスと関わった人々のいのちの勝利への揺るがぬ確信が記される。教会は世に翻弄される度毎に、神の愛の力である聖霊によって復活の出来事に立ち返るよう導かれてきた。世の尺度と教会の尺度が決定的に異なるところは、復活の出来事にある。キリストは甦ったのか?この世の問いにキリストは復活したとの喜びを以て私たちは応じるのだ。

2017年4月9日日曜日

2017年4月9日「神の愛は愚かなまでに」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書21章1~11節

本日は棕櫚の主日礼拝。キリストのエルサレム入城を記念する日曜。しかしマタイ福音書ではエルサレムを舞台にした物語が先駆けて記される。すでにクリスマス物語でエルサレムに暮らす人々の救い主への態度が描かれている。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」との問いにヘロデ王だけでなくエルサレムの人々も皆、同じ態度をとる。人々は救い主の訪れに際して強烈な違和感と、これまで築き上げた権威が揺り動かされるのではないかと動揺する。
この物語を踏まえ本日の箇所に再び戻ると、重要な事柄に気づく。棕櫚の葉を掲げてメシアの訪れを歓迎したその声は城壁の<外から>起きている。私たちは主イエスに向き合う人々の異なる態度に向き合う。ある群れはメシアの訪れを歓迎する。なけなしの自らの衣を脱ぎ、地面に敷いてまで主イエスの訪れを喜ぶ。反対にメシアの訪れを拒む人々がいる。この人々はエルサレムの城壁の内側に暮らしている。城壁の外の暮らしの場が主に「村」であるのに較べると城壁の内側の暮しは社会的に守られている「都市」にある。地位・身分・権力・経済力の格差が人々を容赦なく引き裂いている。主イエスは物理的な壁以上に人々を隔てる格差の壁を村人の生活に欠かせないロバの背に乗り突破する。
けれどもそのような壁以上の<隔ての壁>を主イエスは見抜いている。それは「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という、メシアの訪れを歓迎している人々の声に潜む壁。歓呼の声は救い主の訪れを待望してはいた。しかしその声は解放の望みが直ちに実現するとの期待と一緒くたにされ、待つことを知らない。自分の望みの実現と「祝福される、来るべき国」との間には天と地ほどの差が隠されているのにも拘わらず。人々が求める神の国とは、あらゆる支配者から解放された、長らく異邦人に支配された人々ならではの願いである独立国家であったという。その願い通りの果実を強引に求めるならばエルサレムの城壁の外側の人々も、城壁で守られ君臨する人々と異なりはしない。
多くの人々の願いに反して主イエス・キリストは、自らを高みには置かなかった。主イエスはエルサレムの壁の内側に暮らす特権階級やローマの軍人のように馬を用いない。ロバの背に乗った主イエスは、エルサレムの壁の内側に暮らす人々の傲りだけでなく、メシアを迎える人々の喜びに秘められた破れや悲しみも知る。弟子ですらメシアの復活を疑うのだ。けれどもその描写を通じて救い主へのあらゆる疑いでさえも、受難に隠される神の愛は深く包み込む。私たちは誠実であろうとするほどに高みに立とうとする。それは私たちが破れを抱えた病人であり、弱さに気づかない気の小さな者だからだ。反対に主イエスは苦難の道を突き抜けることができたのは神ご自身が全能であり、主イエスの示された神の愛もまた完全であるからだ。<完全な愛は無力を恐れない。そして愚かさを恐れない>。私たちはキリストの愛に赦され、砕かれた罪人として、棕櫚の葉をもって主イエスの訪れを喜び、讃える。全てを包み込むメシアの愛、キリストの愛をかたときも忘れないために。

2017年4月2日日曜日

2017年4月2日「力の支配を破る救い主」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書20章20~28節

 「忖度」との言葉が流行っている。ドイツ語では「発言なしの指示」と「先回りの服従」と訳される。直接的な命令への服従だけでなく権力者が期待する行動を下位の者が自主的に推測して行う服従。この言葉は空気と化した上下関係を前提とする。先回り服従が不首尾となっても上司は責任を回避して部下の失態として扱える。
 この状況で主イエスの言葉は重く響く。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が息子とともに主イエスに「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れると仰ってください」と願う。息子を思う母の思いが、期せずして弟子達の間に権力闘争の火種をもたらす。世に様々な欲がある。睡眠欲や食欲という生命の基本となる欲もあれば、支配欲や名誉欲という社会性に依存した欲もある。勲章を求める欲は見えづらいだけに質が悪い。
「あなたがたは自分が何を願っているのか分っていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と主イエスは問う。ゲツセマネの祈り、すなわち「父よ、できるなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」との言葉にある「杯」が、歪んだ上昇志向に楔を打ち込む。これこそ主イエスが弟子に示した道。
一連のやりとりは他の弟子にも聞こえるところとなり混乱が生じるが、ここで主イエスは決めゼリフを語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。忖度の入る余地はここにはない。イエス・キリスト御自身への服従が聖書の組織論の鍵となる。
 泉北ニュータウン教会と「車の両輪」の関係にあるこひつじ保育園の組織論の原則はこの箇所に根ざす。教会にはさまざまな特性と賜物を授かった兄弟姉妹が集う。保育園の先生方も園児さんも実に個性的である。だからこそキリストに従う姿勢に根を下ろさなければ、教会でも保育園でも劣等感に苛まれる苦しみや人を見下す傲慢が起こりうる。しかし毀誉褒貶に左右されるあり方はイエス・キリストの十字架と復活によって粉々に砕かれる。礼拝は讃美とともにその出来事を確かめるわざでもある。復活の光に照らされながらイエス・キリストの十字架への道とその杯をともにしつつ新たな年度を始めたい。

2017年3月26日日曜日

2017年3月26日「いのちの希望を先どりして」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

世に言う山上の変容の物語。主イエスが受難の歩みと死と葬り、そして復活の出来事に無理解なペトロをしかりつけ、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」と語った六日の後。
 主イエスは十字架での死と復活を拒んだペトロも含めた三名の弟子を連れて山に登った。ここで主は、まさにメシアとしてよみがえり、天に昇られたそのままの姿を弟子の前に露わにする。さらに主イエスはモーセ、そしてエリヤと語り合っているという、一見不思議な光景がこの箇所では描かれる。主イエスがメシアとして担う役割と関わりが、「語り合う」との言葉のもと活きいきと描かれる。
 モーセもエリヤも、イスラエルの民の無理解のもと、懸命にアブラハムの神の召出しに応じて闘った解放者であり預言者。モーセは貧しさの中で鈍するヘブライ人のため、エリヤは神なき繁栄に溺れるイスラエルの民を導くため生涯を献げた。
 この場に居合わせた弟子達はただただ狼狽える。「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。仮小屋という言葉はドイツ語ではヒュッテと記される。山小屋というよりは祠のようなものかもしれない。出来事としての啓示を弟子は受けとめきれず、暮しとはほど遠い場でひたすら奉ろうとする。教会の信仰と偶像礼拝は紙一重の差に過ぎない。
 けれどもモーセやエリヤとは異なり、主イエスはそんな愚かな弟子たちをお赦しになる。アブラハムの神も主イエスに全権を委任する。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたとありますが、イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい、恐れることはない」。イエス・キリストを通して私たちにアブラハムの神が深く関わってくださっているとのメッセージが響く。
 山の上での出来事とともに、受難の痛みをすでに知り、弟子たちに語るイエス・キリスト。そこにはモーセやエリヤと同じように苦しみや孤独の中で、なおも神の国の訪れを証しした救い主の姿がある。神の国は光り輝く雲に隠されていた。いのちの希望がそこにある。教会の奉仕に倦んでしまったときには、礼拝のみに集中し、主の言葉に耳を傾けるところから再出発したい。齢を重ねる毎に、私たちは輝く雲に包まれる中で、主イエスが私たちに手を触れていることに確信を深める。病の床、戦の世、暮しの困窮、競争社会の中にあっても、その確信は変わらない。

2017年3月19日日曜日

2017年3月19日「いのちを慈しむために」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

東北地方沿岸部では、津波で亡くなったはずの家族に出会った体験談が頻繁にある。迷信だと決めつけられない嘆きがそこにある。この体験は温もりや励ましといった「ともにいる感覚」を鋭くし、生きる負い目を断ち切る。原発事故が終わらない一方で犠牲者に励まされ歩む人がいるならば世の終末とは別の意味で近代の終焉を感じる。
本日の聖書の箇所ではイエスが当時としては都会であり、聖なる都であるエルサレムに必ず上り、そしてそこで政治的な権力も備えていた長老、祭司長、律法学者たちから苦しみをうけて殺されるとの話を、主イエスは弟子たちに打ち明ける。するとペトロはイエスを諫め始める。しかし主イエスは言う。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神を思わず、人を思っている』」。ペトロへの徹底的な拒絶がある。なぜか。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ペトロは主イエスへの負い目がなく、自己への絶望がない。主イエスは負い目から目をそらすなと語る。続いて「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。「わたしのために命を失う者は、それを得る」。この決断は別の言葉で言い換えられる。「わたしのために命を献げる者はそれを得る」。
創世記の族長物語では、アブラハムがイサクを神に犠牲として献げようとする。神がアブラハムを選んだ事実はそのわざに先んじる。イサクは死ななかった。だから主イエスは語る。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」!荒野の試練の物語でサタンは主イエスに全世界を引き合いにして誘惑した。メシアの復活を拒むペトロの態度はサタンのわざと同じだ。
主イエスの問う厳粛な決断は次の道筋にある。「人の子は、父の栄光輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。神の選びの決断、恵みの決断を拒み、神なしに全世界を選ぶならば、神の祝福は裁きとなって臨む。誰かは終わりの時まで分らないは、恵みの安売りを主イエスはしない。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国とともに来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。ここに記される「死」とは己のいのちと全世界との取引。この取引に関わる者は、幼いいのちや小さないのちを虐げる。他方身を挺して生きるなら、神の国の訪れとともなる復活がある。魂だけでもそばに居てほしいとの嘆きを負いながら復活の主イエスは悲しみを静かに癒す。

2017年3月15日水曜日

2017年3月12日「心を開き、春の風を迎えよう」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書3章20~30節

マルコによる福音書の5章1節から始まる、ゲラサの男性との関わりの中で今朝の箇所に立ち返ると、主イエスが自らの身内との関わりの中でゲラサの男性の苦しみを先取りしている様子を看取できる。数を頼みとする幸せの尺度を突き放し、まさに99匹の羊を主に委ね、この一匹の羊を探し求める羊飼いの教えとわざは、社会の主流からは受け入れられない。ベルゼブルとは蝿の姿に象徴される悪霊。蠅のように匿名で集まる妬みの群れ。その群れがどれほど多くとも主イエスは毅然と突き放す。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。罵声を浴びせる律法学者に主イエスは切り返す。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛りあげなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪う取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。
荒れ野の誘惑で主イエスを試みるあのサタン。世の国も同じ文脈で語られる。これも人の権力が行使される国。内輪もめする家も暴力では諍いが絶えない。遂には略奪・強盗の譬えまでが語られる。主イエスを陥れるあらゆる暴言は、何かを育もうとする思いから出るのではなく、貶め、排除し、奪い、傷つけるものだとの前提に立つ。「はっきり言っておく。人の子らが犯すどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」。心ない言葉を呟く私たち。破れを抱えているからこそ全てが赦しのもとにあると主イエスは語る。匿名の言葉の暴力。それは絶えず慎みと悔い改めに置かれる。そのときに赦しは生じる。主イエスも多くの罵りや嘲りに身を置いた。主は神ご自身の力を信頼していたからこそ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分らないのです」と十字架上で語り得た。しかし「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず永遠に罪の責めを負う」とも語られる。赦されざる冒涜とは、人々の希望の光ともなる、キリストに示された神の愛をないかのように語ろうとし、希望を奪い、誤った導きを与える言葉である。愛ではなく憎しみを教える言葉である。それは神の国の訪れにあって、徹底的に打ち負かされる。この神の愛の勝利が「赦されない」との言葉に暗示され、主イエスの十字架にいたる苦難と死への勝利としての復活へと貫徹される。主イエスはまさに、汚れた霊に取憑かれたと見なされた人々と同じ立場に立って、卑賤の道を歩まれた。少数者が妬みやガス抜きのために絶えず冒涜の言葉に晒される時代。そのような人々の苦しみを神様は忘れない。春のめざめ、いのちの希望はそこにはある。

2017年3月5日日曜日

2017年3月5日「試練と誘惑」牛田匡神学生

聖書箇所:マタイによる福音書4章1~11節、ヤコブの手紙1章12~18節

 映画『沈黙』の中には、禁教下の日本で迫害されながらも、キリスト教信仰を守っている信徒たちの姿が描かれています。信仰を守り抜いて殺された「強い人」がいて、信仰を棄てた「弱い人」がいました。神を信じたために迫害され殺されていくという不条理の中、神は何をしておられるのか。それは作品の最後で明らかになります。「私は沈黙していたのではない。苦しんでいるあなたたちと共に苦しんでいた。そのために私は十字架に架かったのだ」と……。このような神は、現代を生きる私たちの間にも見ることのできる、感じることのできる神様の姿ではないでしょうか。
 『ヤコブの手紙』には、「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」と記されています。神様が「強い人」と「弱い人」を分けて創られたのではありません。人間が他者を「強い」とか「弱い」とか裁くのです。2000年前にパレスチナの地を歩まれたイエス様は、そのように社会の中で「役に立たない」「価値がない」と裁かれ、差別されていた人々の所へ出かけて行かれては、「あなたも大切な人なんだよ」と、伝えて行かれました。そしてその言葉や振る舞いは、自他を裁くという「誘惑」から人々を解放していくものでした。
 先日の水曜日から、教会暦では「受難節」に入りました。主イエスの苦難と十字架の死を覚え、また私たち自身も自らの苦難と取り組み、その先にある「復活」という希望を見出す期間です。イエス・キリストはその公生涯の初めに、「石をパンに変えよ」「天使たちに支え守ってもらえ」などという悪魔の「誘惑」を退けられました。イエス様はその公生涯を通じて、人々のために数々の奇跡を行いましたが、ご自分のためには奇跡を行われませんでした。そしてその最期ですら「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」という「誘惑」を退けられました。そのようにして主イエスはご自分が「神の子」であることを、「力」や「奇跡」によってではなく、全ての人々のためにご自身を献げられるという徹底した「愛」によって、私たちに示されたのでした。
 この世界は、「試み」と「誘惑」に満ちています。私たちも「誘惑」にさらされ、「奇跡」を求め、他人を裁いてしまうことがあります。御心に従い、全ての生命を大切にする生き方ができる者へと変えられて行きたいと願っています。

2017年2月26日日曜日

2017年2月26日「安心しなさい」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~36節

主イエスは弟子たちを強いて、無理矢理に舟に乗り込ませ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。さらりと主イエスの振る舞いを描く箇所。考えてみれば無茶だ。弟子たちに主イエスはいつ戻るかも知らせずに向こう岸に渡るようにと舟に乗り込ませる。弟子を心細さの極みに置く主イエス。夜が訪れようとするその時、舟を嵐の只中に送り出すとのわざ。秋から冬にかけて、ガリラヤ湖には突風が吹き荒れ、それが半日も続くこともある。それが夜の湖ならばなおの恐怖。旧約聖書との関連で今朝の箇所は俄然活きいきとする。例えば創世記の洪水物語。それは生ける者を根切りにする大災害である。預言者ヨナはヨナ書で神のみ旨より逃れようと船に乗るものの、嵐の海に投げ込まれ、魚の腹の中で回心する。出エジプト記でヘブライ人を追いつめるエジプト軍は、海の底に沈む。
このように水や海と関わる箇所を集めると、異なる意味合いも含まれてくる。暮らしに不可欠ながら、命をも飲み込む諸刃の剣としての世。弟子たちを乗せた船は混沌とした世に人の命をつなぐ場となる。世に隠された教会の働き。しかし弟子は恐怖に呑み込まれて混乱するばかりだ。
混乱の中で声を上げた弟子。それは主イエスの筆頭弟子と目されるペトロ。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫ぶ覚束ないその歩み。
「主よ、助けてください」。私たちはこの一週間、何度この言葉を呟いたことか。けれども主イエスは手を伸ばして捕まえ、ペトロが世の波へ沈まないようにする。
本日の箇所は、ペトロを諫める主イエスの言葉だけに終わらない。「そして、二人が舟に乗り込むと、嵐は静まった」。主イエスの「安心しなさい」との言葉がここで実現する。そして弟子たちは「あなたは神の子だ」と主イエスを礼拝する。その結果与えられた力とは、ゲネサレトという地に到着し、癒しのわざを行われたとの記事で終わる。主イエスの癒しは弟子と無関係ではない。湖での試練を通して教会は主イエスとの絆を確認し、癒しの力を新たに注がれる。「強い風」とは、主イエスを知らない者には恐怖の源だが、主イエスをキリストであると告白する者には聖霊の働きとなる。主イエスのわざは創造主なる神・聖霊のわざと不可分である。この週私たちは受難節を迎える。神の愛に包まれているとの確信を得て新たな週を歩みたい。

2017年2月19日日曜日

2017年2月19日 早春特別礼拝説教「一人ではない」鴨島兄弟教会牧師 大田健悟牧師

聖書箇所:イザヤ書41章8~10節

恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。《イザヤ書41章10節》

「恐れるな」―これは聖書の中で何度も繰り返されるメッセージです。逆に言うならば、私たちの人生がそれだけ「恐れさせるもの」で満ちている、と言うことでしょう。新聞には現在の問題や不安、それに対する対処法、そんなことがたくさん書かれています。しかし神様は私たちに恐れなくても大丈夫、とおっしゃるのです。
スヌーピーの漫画「ピーナッツ」のエピソードに、二人のこどもが「安心ってなんだとおもう?」「それはパパとママが運転している車の後部座席で、なんにもしないで寝ていられる、ってことだよ」とやり取りする場面があります。そして会話は「でも、いつまでもそんなわけにはいかない。大人になったら、全部自分でなんとかしなきゃならないんだ!」と言うオチに続いてきます。確かに私たちは皆このように、自分の身は自分で守る、と教わってきました。しかしこれは神様のおっしゃることと真反対です。

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。《エレミヤ書31章3節》
そのとこしえの愛の大きさは、神が神であることをやめ、この暗い世界に人としてお生れになるほどの愛です。聖霊である神様が天を捨ててこの汚れた私たちの内に住んでくださるほどの愛です。人間は皆「罪びと」なので、神に対して罪を犯しています。そしてイエス様こそが「私たちの罪を償ういけにえ」なのだ、と聖書は言います。イエス様がわたしの罪のために身代わりの「いけにえ」として十字架にかかってくださったことを信じるだけで、私たちは天の国籍をもつようになり、孤軍奮闘の人生からも救われるのです。あなたがどう生きたら幸せなのかは神様がよくご存知で、私たちは生まれる前から神の恵みの中に置かれているのです。
神様は、その独り子であるイエス様をあなたの身代わりとして十字架にかけるほどにあなたを愛しておられます。イエス様の十字架によって、罪を犯して神様から遠く離れ去っていた私たちは神様と和解させていただきました。ですから、神様があなたを見捨てたり、あなたが一人ぼっちになったりすることはもうありえないのです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《ヨハネによる福音書3章16節》

2017年2月12日日曜日

2017年2月12日「神の愛につつまれて生きる道」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書5章17~20節

 「律法」には二つの意味がある。ひとつには、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記という、かつてはモーセ五書とも呼ばれたひとまとまりの書物、今一つには出エジプト記にある十戒を枠組みとした613の誡めを示す。主イエスは律法学者と激しい論戦を行った。だがファリサイ派や律法学者を憎んだとは福音書には記されない。むしろマタイ福音書5章20節では「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とある。主イエスは、律法学者の正しさ、あるいはファリサイ派の正しさや誠実さといったものに、一定の評価を与えている。では律法学者やファリサイ派が抱えていた問題点とは何か。それは律法の理解の排他性にあったといえる。崇高な言葉が金科玉条として掲げられ、排除を生むならば文字は人を殺す。
 律法学者は概して信仰の浅さ深さを問うたが、本来はメシアを仰ぐ態度を顧みるべきであった。信仰は生き方であり、説教も生き方。だからこそ主イエスは語る。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国では最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。比較も善し悪しも越えた神の恵みなしには私たちは聖書の字面を追うだけだ。
律法の完成者の語る教えは「善いサマリア人のたとえ」。ある律法学者が「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいか」と主イエスに迫る。この場面で主イエスは律法の一文を相手に答えさせる。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」。主イエスは、この律法学者の答えを「正しい答えだ」と肯定する。その上で「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答える。なおも食い下がる律法学者に語るのは、ユダヤの民からは穢れた人々とされ、一切の関わりを絶たれていたサマリア人が旅人を助けた物語。「隣人となったのは誰か、律法を守ったのは誰か」と問う。
主イエスの聖書の解き明かしは、聖書を共有していない人との交わりをも育む。主は神の愛につつまれて生きる道を備える。その途上、私たちはわれ知らずして、思いも寄らなかった和解のわざを、隣人と結ぶ恵みとして授かる。主の足跡を辿り、祈り求めよう。 

2017年2月5日日曜日

2017年2月5日「出来事としての啓示」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書13章10~17節

 弟子たちはイエスに近寄って「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と言った。それは敢えて弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからだ」と主イエスが語っている通りだ。主イエスは文化人のサークルの中で教えを語ったり、対話を好んだりしたわけではない。民衆の中に分け入っていき、神の慰めと癒しの言葉を証ししたのが主イエスだ。その言葉は「たとえ」という表現を伴う。なぜか。暮らしの中の一場面を用いる中で、聴き手に気づきを与えることが、神の国への窓につながるからだ。「たとえ」の意図は分かりやすい話に秘められたメッセージに、神の国の窓を気づかせること。分からなければ、その話は他人事として終わる。この「私」に迫るメッセージなのか、それとも他人事か。これが主イエスの語る「たとえ話」のもつ醍醐味だ。残念なことに、神の国のたとえ話はなかなか伝わるものではないよ、と主イエスは弟子たちに語る。それは旧約聖書に根ざした、主イエスの極めて鋭い洞察に立つ。
旧約聖書は神の前に過ちを犯さない人はどこにもいない、義人はいないとの立場にある。それゆえに人間そのものの能力に対し、主イエスは自分の言葉を受け入れる力をあてにはしていない。人の言葉のやりとりには必ず誤解が生じる。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くこともなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない」。イザヤは何もその時代の愚かな人々を指して言ったのではない。神に選ばれたはずのイスラエルの民でさえこのような穴を避けられなかった。
 けれども、と主イエスは続ける。「しかし、あなたがたの目は見ている」。「あなたたがたの耳は聞いている」。だから幸いなのだという。「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものをみたかったが、見ることはできなかった。あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかった」。預言者や正しい人、神の前に無垢であった人でさえ、聞くことなく、見ることもなく、隠されていたことがあったと主イエスは語る。それは出来事として、天の国の秘密を開くイエス・キリストの啓示として起きる。イエス・キリストとの関わりが生まれるとき、私たちは俗世の知識とは異なる知恵を授かる。私たちは鶏が鳴く前に三度主イエスを否んだ弟子のペトロを想起したい。ペトロは慟哭とともに主イエスの言葉を全身全霊で受け止めた。和解の主イエス・キリストの啓示の出来事に触れ、心眼を開かれた一人の人間の姿がそこにある。
 

2017年1月29日日曜日

2017年1月29日「きけ、こどもたちのうたを」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書21章12~17節
 
 「イエスによるエルサレム神殿の宮清め」の箇所。イエスは境内の中で「売り買いをしていた人々」を追い出した。その相手は、第一には両替人。エルサレムの神殿への献金は、皇帝の肖像の彫られたローマの通貨は使用できない。その時代の神殿では偶像が刻まれた貨幣となるからだ。だから両替が必要になる。その手数料を一定の額に固定すると、多額の献金をする資産家には有利に働き、貧しい者には負担となる。次に主イエスが追い出したのは「鳩を売る者」。ルカ福音書には「始めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とあり、そのためには、山鳩一つがいか、あるいは家鳩の雛二羽が用いられた。聖別の献げものはあくまで鳩である。問題は鳩を「売る者」が境内にいたことだ。貧しい者の献げものとして定められた鳩でさえ金銭的な制約がかかる。経済格差が生育環境からすでに影を落とし、不条理は「罪」という排除と自己責任を示す言葉で正当化される。聖なるものとして祝福を授けられない幼子が境内に見える。
 主イエスは一見狼藉とも見える振る舞いとともに語る。「『こう書いてある。わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている』。これはゼカリヤ書やエレミヤ書から引用される。天地万物の創造主にしてアブラハムの神の祝福が、神殿では金儲けの手段にされているありさま。そのさまをじっと見つめる群れがある。エルサレム入城の以降の舞台には滅多に描かれない主イエスの癒しのわざ。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによってきたので、イエスはこれらの人々を癒された」。自己責任の呪縛から解き放ち、主イエスを中心とする交わりに加えられた人々。このわざを見た境内のこどもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ。聖別されずにたむろするこどもは汚らしいと遠ざけられたこどもたち。詰め寄る祭司や律法学者に主イエスは「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは讃美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」と答える。
 蔑まれていた人々やこどもたちの純真なこころが、主イエスの態度に応えた瞬間。粗暴に映るわざの陰には神殿でさえ人間扱いされなかった人々との深い交わりがあった。そしてこどもたちは、俗世に被れたユダヤ教の祭司による聖別の儀式を受ける前に、すでに神の祝福を看て取った。顧みて今の世。「でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。原発事故により避難を余儀なくされた横浜市の中学一年生の手記。穢れた者だと虐げられながら学校から黙殺された生徒のことば。大人は何をしているのか。キリストの恩寵による交わりが育まれることを祈ってやまない。

2017年1月26日木曜日

2017年1月22日「時代の波に希望は揺るがない」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書4章12~17節

 洗礼者ヨハネ逮捕の知らせを聞いた主イエスは「ガリラヤへ退かれた」とあるように後追いをせず、早まりはしなかった。進退を見極める主イエスの態度はヨハネによる福音書によると一層鮮明になる。その根底には2章23節以降の口語訳で「しかし、イエス御自身は彼らに御自分をお任せにはならなかった」とある通りだ。濃密な間柄の中で描かれる洗礼者ヨハネと主イエスだが、実は各々授けられた役割を存分に知り尽くした上で各々授けられた役目に基づいて道を歩む。主イエスは命を狙われ、一人あることを恐れず、ガリラヤに退かれ、そして故郷ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。遠回りの道筋の中で、実はその時代のユダヤの中心であったエルサレムからは異邦人の街・辺境として退けられ、見捨てられていた街。中心ではなく周辺にある街に主イエスは暫く働きの拠点を置く。
何らかの理由で主イエスが宣教活動の途上滞在する場は、今後とも何らかの暫定性を帯びる。それは時に弟子たちに覚悟を求める。しかしそれはいつ何があってもその場の危機に対応して神から委託された役目を疎かにはしないことでもある。主イエスが十字架にお架かりになるその先には復活がある。精神主義や熱狂主義に立つ玉砕の道とは無縁だ。
 かの国では逃げないことが美徳とされた。逃げることは恥であった。その思い詰めの中で組織に過剰に適応する余り、時や組織の変化に対応できず、無残な最期を迎える話が後を絶たない。主イエスの示す「暫定的なあり方」とは、その只中で肩の力を抜くゆとりをもたらす。深い癒しと慰めとともに。
 時代の過渡期との言葉はよく礼拝説教で用いられる。私たちは戸惑う。何に向かっての過渡期なのか。それは未来が予測不可能だからではない。これからいくつもの重い課題に直面すると分っていながら、そのために何をすればよいのか分らないからだ。しかし主イエスは語る。洗礼者ヨハネとは異なる場所で、しかしヨハネからバトンを引き継ぎなら、救い主として律法全体を完成させるために。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
時代の波に神の希望は決して揺るがない。時代の波は常に暫定的だ。その波に主イエスのわざも柔軟に対応するがゆえに暫定的である。主イエスの暫定性は柔軟性につながり、私たちを自由にする。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。こどもや大人、若きも老いも、囚われの身にあっても、私たちは真理を知るゆえに自由だ。イエス・キリストの賜る自由な恵みに何ら不自由しないから。

2017年1月15日日曜日

2017年1月15日「神の愛のネットワーク」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書4章18~25節

 弟子となるペトロとアンデレの生業が漁師であるとの物語の展開。ガリラヤ湖はローマ帝国の水路として用いられ、人々の暮らしを満たす場ではなかった。ルカによる福音書で、主イエスがシモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語りかけた際に、シモンは網を洗いながら「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答える。漁師という生業の過酷さ。主イエスが向かった生活の場とは日毎の暮しが闘いであった場でもある。
 主イエスの弟子になる。それはキリストに従う態度と証しを伴う。そのわざは世との関わりとの否定からではなく、垂直に被造物と関わり、わたしたちを愛する創造主なる神を仰ぐところから始まる。神の姿は見えないからこそ、神の御子として上から、そして「ともにいます神」として関わるキリストを判断基準の根底に据えなければならない。この事柄が抜け落ちるならば、教会のあらゆる奉仕からは喜びが失われる。
 キリストに従う態度とわざは実に豊かな多様性を秘めている。今朝の聖書箇所の後半、新約聖書の6頁冒頭では、イエス・キリストが自由に道を行き巡る姿が活きいきと記される。多彩な地中海世界が凝縮されたような街々で苦しみ悶えていた人々はただ癒されるだけでなく、イエスに「従った」。イエス・キリストを中心にした円をモデルにした交わりがこのとき生まれる。弟子とは誰かとの問いはガリラヤの漁師を超えていく。イエス・キリストを中心にした交わりに由来しながら、さらに世のための教会共同体の原型が構想される。キリストに従う態度とわざとは、祝福を受けた者が、その祝福に世のために応えていく姿を伴う。それはかたちとしては特定の枠にははまらない。政治的神奉仕という言葉。これは世にある教会が神讃美の中で人々にいかに仕えるかを問う。イエス・キリストの癒しのわざは、世にある神讃美が否定されるどころか、主御自ら率先して行ったことを示す。だから奉仕にあたりわたしたちは己を顧みる前に、イエス・キリストを仰ぐのだ。キリストを仰ぐならば「わたしの信仰」は「わたしたちの信仰」へと変えられる。なぜなら神の愛のネットワークは、世に困窮の闇が深まるほどに広まるからだ。信仰はアクセサリーやステイタスではなく、教会のわざは人の世のきまぐれを判断基準とはしない。教会のわざを考えるにあたり中心に立つのは誰なのかを忘れてはいけないのだ。

2017年1月8日日曜日

2017年1月8日「わたしの愛する子」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節

 洗礼者ヨハネの活躍の場は荒れ野。それは人による統治のしくみの保護外での暮らしを意味する。ヨハネは街に入らず集落の外で教えを宣べ伝える。大勢の人々、ファリサイ派やサドカイ派までがヨハネのもとに来た。ファリサイ派は旧約聖書に通じた学者。他方サドカイ派はエルサレムの神殿の大祭司を始めとした祭儀を行い、ユダヤの政を司る者でもあった。当時のユダヤはローマ帝国の属州であり、その身分の保証にはローマ帝国の官僚の思惑が働く。洗礼者ヨハネのもとに人々が集まり敢えて悔い改めの洗礼を受けずにおれなかった事情。それは古代ユダヤ教そのものの世俗化だ。
洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい身を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と語る。これは政治と混然一体化したユダヤ教主流派への批判だ。
 洗礼者ヨハネと深く関わりのあったユダヤ教のグループとして徹底してこの世の尺度を拒んだ群れがある。それはエッセネ派と呼ばれる群れ。エッセネ派は荒れ野に群れを作り沐浴をして身体を清める。ローマ帝国の後ろ盾あってのエルサレムの神殿への無言の抵抗がある。この群れとの関わりが推し量れるヨハネは、救い主の訪れについて語る。「わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない」。ヨハネは自らが救い主を指し示す一本の指以上の者ではないと自覚する。
 「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼。救い主である主イエスには本来妥当しないはず。だからヨハネはそれを思いとどまらせようとする。ヨハネにはこれはあり得ない出来事だ。しかし主イエスは語る。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです」。主イエスのヨハネからの洗礼の出来事は、クリスマスと並ぶ神の恵みを現わす。それは神が遣わされた救い主が世俗化されたユダヤ教に連なる者としての意思表明に示される。街中に入ろうとしない洗礼者ヨハネに対し主イエスは人の設けた垣根を越えて俗世の泥をかぶり証しを立てる。神の愛が世に示されるために。主なる神が仰せられた「わたしの愛する子」。御子イエス・キリストの言葉に耳を傾けその足跡を辿る一週間にしたい。

2017年1月1日日曜日

2017年1月1日「新たに始まる旅路」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書2章13~23節

東方からやってきた三人の博士達の帰国の後、夢で危機を天使から知らされたヨセフが家族を連れてエジプトへ逃れる時を同じくして、ヘロデ王によるベツレヘムの幼児虐殺が起き、その治世が終わった後にヨセフとマリア、そしてイエスがナザレに暮しの拠点を置くとの物語の構成。折角喜びに満ちたクリスマスの光の中で、なぜこのような残酷なお話が書き記されているのか私たちは首をかしげる。けれども福音書は、救い主の降誕の祝いが物忌にあたる出来事を決して排除せず、むしろ救い主の降誕の希望の光のもとに世の悲しみが暴露されるしくみに立つ。私たちはここに福音書のリアリズムを看取したい。福音書で描かれる「主の天使」のわざは、辞書でいう「使い・使者」の役割を超えている。
主の天使は受胎告知の場面ではマリアを祝福する。そして慄くヨセフの不安を取り除き、みどり子の名前まで定める。主の天使が翼をもつものとして描かれた背後には、神のわざである聖霊の働きが示されているようにも思える。その意味では翼をもつ天使の姿は決して侮ることができない姿でもある。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい」。ヨセフに目覚めよと促す夢はまどろみとは異質。「後ろを振り返らず、エジプトに逃れよ。私が告げるまで、そこに留まれ。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている」。王としての権力を確立したはずのヘロデ王には「ユダヤ人の王とは自分のことだ」との意識があったはずだ。幼子と血縁なき父ヨセフはマリアともども懸命に抜け道を走りぬく。ヘロデ王が権力欲しさに伴侶と一族に次々と手にかけた姿とは対照的だ。血のつながりあればこそ募る嫉妬と恐怖もある。幼児虐殺の描写には、救い主キリストの顕れの中で問われるありのままの世の姿がある。
後の箇所で主イエスが語った山上の垂訓は神の国にある世の変貌を示す。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」。幼子を殺められた親を慰めるのは誰なのか。それは他ならないイエス・キリストである。世界には生まれながらにして困窮に喘ぐ人は数知れない。そしてかつて一億総中流との言葉を誇ったこの国でさえ例外ではない。一億総格差社会。その中で未来を拓き、クリスマスの無名の家族を導いた神の力に身を委ねつつ、その使信を究極的な判断基準としたい。みつばさのかげで安らう時を、新たな年も主は備えてくださる。