2016年12月25日日曜日

2016年12月25日「飼い葉桶をつつむ光」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~14節

 古代の人々には特別の力が宿るとされた言葉の力は今も変わらない。人を傷つける言葉もあれば癒したり、支えたりする力。公言された文書で国々が仲良くもなれば争うこともある。言葉をめぐるドラマに旧約聖書のバベルの塔の物語がある。天まで届く塔のある町を建て有名になろうとする態度。その昂ぶりを神は赦さず言葉を混乱(バラル)させ、バベルとの町の名の語源となったとの話。多くの言葉の由来を示すのではなく、実は高い技術力をもった人々が、その昂ぶりによって意思疎通が不可能になるとの話。救い主を待ち望む民はこれが現実だと辛酸の中で受けとめた。
 その厳しく透徹した現実認識は、世界が神の言葉によって創造されたとの確信に立つ。「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」。創世記の言葉はヨハネ福音書では次のように理解される。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。風が吹こうが雨が降ろうが消えない命の光。その光は闇が深まるほどにその輝きを増す。人のもたらした嵐吹く世に灯された命の光が神の言葉のうちにあったと福音書は語る。
 ローマ帝国に征服された民には世は混沌としたままであった。一つの民を分断し、いがみ合わせ、力づくで平和を維持しつつ統治するのが「ローマの平和」。行き詰まりと諦めと絶望が覆う世。しかし神の言葉は一切ぶれない。14節にある通り「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」からだ。言葉は肉となって私たちの間に宿られた。それは神の御子が、時に砂漠をさすらうような不安に支配される肉の欲の中で、他者との交わりを支配しようとする人の欲の中で翻弄されるわたしたちの痛みをともにしてくださったことにほかならない。主イエスが生まれた場所は塹壕と同じように不衛生な飼い葉桶だった。その救い主が、自ら考えることを諦めて噂に翻弄される人々に、神の子となる資格を与えるために、世の常識を突き抜けた神の真理を語り、世を新たにする突破口を開き、神の国への展望を開き、その代償としての苦難を担われた。本日は2016年最後の礼拝でもある。様々な思いと気持ちが去来する。しかしすべてを包むのはイエス・キリストに示された神の愛の光なのだ。メリー・クリスマス!