2016年11月27日日曜日

2016年11月27日「思いがけない神の恵み」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書24章36~44節

 バビロン捕囚以降、ヘブライ人は絶えず強大な異国の民の支配下に置かれた。自由はもはや与えられず、常に何者かによって虐げられる憂き目。イザヤ書2章1節からの預言にはその行き詰まりにあって、なおも主が道を開拓してくださるとの終末論的希望が語られる。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから来る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。多くの争いや戦争の記事が描かれ私たちの困惑する旧約聖書。けれども人の愚かさや醜さをこれでもかと踏まえたうえで、イザヤ書は主の裁きが転じて人々の剣を鋤とし、槍を鎌とする、つまり争いから人みな地を耕す平安を備えると約束する。この終わりの日は、救い主の訪れに示される。それは思いがけない日に訪れるとマタイによる福音書の書き手は記す。
 私たちは待降節の中で収穫感謝日礼拝を迎えた今日、何を待ち望むというのか。確かに主イエスの誕生は神の現臨される、終わりの日の先取りとして刻まれる。救い主の待望は、終末論的な響きを伴う。その響きとともに、ルカによる福音書でイエスの母マリアが天使ガブリエルから受胎告知と洗礼者ヨハネの母エリザベトの祝福を受けて語った言葉を私たちは聴く。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えで人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。マリアの賛歌を熟読すれば、権力と身分の大変動が記され、次いで、食に事欠き、ひもじさに苛まれている人々がもはや生きるに窮する必要もなくなり、富めるものとの立場が入れ替わる。そしてその大変動は、創世記で族長達を導いたアブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神からそそがれる力に基づくものなのだとの確信がある。このわざを行うのはインマヌエルの主ご自身であるところに私たちは信頼と希望を置く。これこそが後世に託せる最大の遺物であると待降節の始まりに確信したい。

2016年11月20日日曜日

2016年11月20日「船出のときに必要なもの」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録28章1~10節

海難事故から救助されたパウロはマルタ島を管轄するローマ帝国の長官プブリウスと出会う。パウロはプブリウスにマルタ島の長官という公の立場を踏み越えて長官の家族と関わる。プブリウスの父親は下痢を伴う熱病に罹っていた。パウロは祈り、手を置いてその苦しみを癒した。マルタ島の他の病人もやってきて癒しを授かる。本来なら避けられなければならないはずの重篤の病が、パウロの癒しを通して島の人々の交わりが新たにされる。このような仕方でパウロは証しを立て、深い敬意とともに船出の際には必要な支援を受けた。
 もちろん人の信仰に神の恩寵が先んじるとパウロは語る。ゆえに信仰の深い・浅いあるいは短さ・長さは根本的には問われない。使徒言行録は英雄伝ではない。一度は主イエスを離れた弟子を、また教会迫害の過去をもつパウロを、使徒として神が用いた道筋が記される。だから本日の聖書の箇所にあっても「船出のときには、わたしたちには必要なものを持ってきてくれた」と記されても「わたしたちには望むもの」あるいは「欲するもの」とは決して記されない。必要なものは神自らが見極める。今必要なものに足りていても、欲する思いは足ることを知らない。その思いが余って、必要なものに事欠く人々への眼差しが塞がれてしまうことも充分あり得る。使徒言行録の物語に我が身を投げ込んでまいりますと、懸命に遭難者の救助にあたってはいても、大局的な展望を忘れ、パウロの腕に絡みつく蝮一匹で右往左往するような者であると気づく。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と記す。私たちは時折この言葉に違和感を覚える。文体が勧めではなく命令になっているところだ。実はこのわざが困難だからこそパウロは書き記したのではなかろうか。パウロは『ローマの信徒への手紙』5章で明確に信仰義認論を展開する。その一方で『ヤコブの手紙』では「行いを欠いた信仰は死んだもの」とも記される。信仰と行い。両者を結ぶ必要にして最大のわざは何か。それは十字架の主、クリスマスの主であるイエス・キリストを仰ぐことだ。そのときにこそ、折に触れて訪れる節目としての人生の船出に何が必要なのかが必ず示される。

2016年11月13日日曜日

2016年11月13日「こどもたちと神さまの恵みを分かち合う暮し」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1~10節

 ヨハネによる福音書では、主イエスがティベリアス湖の向こう岸に渡られたとある。ティベリアスとはローマ帝国の第二代皇帝ティベリウスに由来する。この記事からは、ヨハネによる福音書が記された時代には、ガリラヤ地方にはローマ帝国の圧力が増し人々の苦しみは他の福音書にも増して不自由であったことが想像できる。その中で主イエスは弟子のフィリポに「この人たちを食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と問う。ヨハネの書き手はこの問いがフィリポを試みるためであったと記す。
 問題は「買う」という言葉。食べさせるために今日でいう市場原理の中で用いられる物差しをもって弟子に問いかける。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答える。当時の日雇い労働者の日当は一デナリオン。今では8,000円から10,000円と見なすべきだろう。このため息交じりの言葉は、もしお金で人々を満たそうとするならば無理だと弟子に言わせているとも読み取れる。
 次にアンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」と口を挟む。少年は食事の問題で困っている弟子たちに、無心で自分の弁当、あるいは自分の家族の弁当を差し出したのかも知れない。ガリラヤ周辺の人々は所用で出かける際には食事を持参することは珍しくなかった。アンデレは少年の無垢な好意を差し置いて呟く。「けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
 主イエスは少年が献げたパンを取り「感謝の祈りを唱えてから、分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」。主イエスは食事を少年から買ったのではなくて、献げようとしたその無垢で素朴な思いを受けとめ、不平ではなく神への感謝とともに群衆に惜しみなく分け与えた。その結果12の籠は残ったパン屑で一杯になった。12人の弟子たち・新たなイスラエルたる教会もまたその恵みによって満たされた。本日は幼児祝福式を執行する。激しい格差社会にありながら全てのこどもたちが満たされるための証しのわざが教会には求められている。神さまの恵みを分かち合う暮しがそこにある。

2016年11月6日日曜日

2016年11月06日永眠者記念礼拝説教「ラザロの家族とともに」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章28~37節

ヨブの呻きや悲しみは、人には当事者しか立ち入ることのできない傷みを示す。その理由を問わず大切な人を失った悲しみを癒す手立てを人のわざとして私たちは知らない。その厳粛な事実を踏まえながらの「ラザロの死と復活」の物語。ラザロの地には主イエスへの憎悪が渦巻いていた。決死の覚悟のもと、一行はラザロの姉妹マルタのもとを尋ねます。マルタは世の終末の復活信仰に立つ女性であった。イエスをメシアだと告白していた。そのマルタともにマリアはイエスのおられる所に来て「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟はしななかったでしょうに」と涙を流す。私たちの言葉には破れが伴う。人の言葉になった途端神の国への確信やイエスがメシアであるとの信仰告白も悲しみを癒すには充分ではない主イエスもこの場に臨んで、所謂平常心を保ち得なかった。「イエスは涙を流された」。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」との言葉もラザロへの悼みの言葉としての陰を帯びていく。
墓地への途上マルタは「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」と、その死が揺るがぬ事実であると伝える。身体は朽ちていく最中。けれどもこの箇所で、イエスはマルタが終末信仰への確信を語っていたことを繰り返す。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。身体と同じく人の抱く悲しみもいずれ終わりを迎える。創造主なる神の栄光を見たくはないのか。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聴いてくださることを私は知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りに居る群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。主イエスの祈りは願いではない。神への感謝と確信から始まる。それがラザロの復活の宣言となる。
主イエスキリストに示された神の力が私たちに示されたとき、いかなる苦しみも悲しみも全て癒され、涙も拭われ、全てが新たにされる。ヨブの苦しみも悼みも癒され、助け主なる聖霊は私たちの背中を押してくださる。老若を問わず、私たちの目からみれば亡くなったと見なされる、眠りについた方々は、今なお主のみもとで、わたしたちを励ます。ゆえに永眠者記念礼拝は召天者記念礼拝との面を併せ持つ。天に召されていよいよ力を増す私たちの家族、動労者、兄弟姉妹。イエス・キリストを仰ぐとき、私たちもラザロの家族と同じように深い癒しと希望に基づいた確信を授かるのだ。