2016年1月10日日曜日

2016年1月10日「異邦の地に開く喜びの花」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章44~48節

 ローマ帝国が設けた都市カイサリアで使徒ペトロの話を聞いた者たちに聖霊が降る。意外にも使徒言行録10章44節で初めて「聖霊が降った」と記される。ペトロは「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」と語り、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるように命じた。この控えめな箇所には、初代教会の抱えていた課題が圧縮されている。それはユダヤ教や旧約聖書とは何の接点もない異邦人への聖霊降臨の出来事が、エルサレムを拠点とする使徒にはショックであった点、そして使徒言行録では初めて「異言」との語が記される点に示される。
ユダヤ教とは全く異質の人々、社会的にはユダヤ人を支配する役目すら担う異邦人に聖霊が降ったことにより、ユダヤ教の流れを汲む人々はもはや信仰の優劣を問えなくなった。洗礼を受けるように命じたペトロと、数日カイサリアに滞在するようペトロに乞うコルネリウスの姿から、分裂の危機に立つ異質の群れが、互いに受入れあおうとする姿勢を看取できる。
また「異言」をめぐって、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ.14章で「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言をするための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かっているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」と記す。さらに「わたしは他の人たちを教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と語る。
言葉に理性と他者への配慮がなければ、教会は実に独善的な閉鎖空間となる。日本の教会は理屈っぽすぎて駄目だ、韓国のように祈る教会でなければならないとの声もある。けれども韓国人牧師の一人は「韓国の大教会は立派に見えてもこの世の考えが入り込み、社会で生き辛さを抱える人々の身の置き所がない場合もある。この世の力に負けない判断力を研鑽するためにも聖書と神学の学びに励まねば」と語る。異邦の地に喜びの花を咲かせるため、教会はキリストに根を下ろし御言葉に養われなければならない。