2015年12月27日日曜日

2015年12月27日「神の前に立つ年の瀬」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章23節後半~33節

今年最後の日曜日を迎えても私たちはクリスマスの最中にある。クリスマスの出来事の喜びの響きの中で、あらためて使徒言行録に立ち返ると、イエス・キリストの恵みがローマ帝国の社会的立場や格差を包み込んでいることを改めて思い知る。今朝の箇所で「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに来て、足もとにひれ伏して拝んだ」とある。コルネリウスがローマ帝国の市民権を持つ将校であり、軍人であることを踏まえると、彼の行動は大胆である。ローマ帝国の市民権もなく、もとはといえばガリラヤの一漁師であった使徒を迎え入れ、伏し拝んでいるからだ。その姿は飼い葉桶に眠る幼子を伏し拝む東方の三博士と重なる。
教会には実に多彩な職業や立場にある兄弟姉妹が集うが、「わたしもただの人間です」とのペトロの言葉には当時には珍しい普遍的な人間像が見てとれる。ペトロの「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」との言葉に等しい重さは軍人コルネリウスの軍律にもあったに違いない。そのことを承知の上でペトロは「けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と語る。これは単なる古代ユダヤ教における汚れと清めに関する規定を越えて、教会はどんな人でも排除してはならないのだとする解釈も可能だ。私たちの世にあって分け隔てとなる全ての垣根をクリスマスの出来事は取り払った。使徒言行録の物語には、その時代の人間世界の考えでは想像もつかない交わりが、教会を介して網の目のように張り巡らされている様子が窺える。
神の前に立つ年の瀬。畏れながらも、神の国のモデルとしての教会とつながりながら、私たちは新たな希望を授けられたことは確かであった。福音書の記された時代からは2000年の隔たりを持ちながらも、聖霊の力によって、聖書の世界と私たちは固く結ばれている。どのような立場にいようと、どのような生業に立っていようと、主は私たちの歩んだこの一年のかけがえのない歩みを用いて、色鮮やかな神の国を描いたタペストリーを織りあげてくださる。新たな年に向けて、主が命じられたことに、耳を傾けて歩みたい。

2015年12月20日日曜日

2015年12月20日「救い主の光、輝く朝」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~18節

 ヨハネによる福音書の書き出しには「初めに言があった。言は神ととともにあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内にはいのちがあった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある。この文章が示す事柄とは何か。
 この福音書の書き手はギリシア思想の影響を受けた人々からの声に向き合った。ギリシア思想の世の捉え方とは、善と悪、陰と陽、光と影という二項対立。その世界で、ヨハネによる福音書は二つの対立を乗り越える「言」に救い主の姿を重ね、救い主を「神と世との仲立ちをされる方」として刻む。その光が照らす闇とは何か。
例えるなら、クリスマスの原風景に欠かせないベツレヘム。ルカによる福音書が描き出すこの街では、誰もが自分のことばかりに気を取られ、里帰りしたヨセフと身重のマリアに扉を閉ざす。閉じた扉に光は差し込まない。
年の瀬には教会に生活の糧を乞う人々を迎える場合もある。「お金を貸してください」と呟く訪問者への対応の中、実は求めが金銭にはなく、人として向き合ってほしいとの叫びを聴く。言葉の字面に気をとられ、見落としてしまう尊厳がそこにある。
 今朝の礼拝で強調したいのは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との箇所。神の言イエス・キリストは、肉となってわたしたちの間に宿られた。人としてお生まれになった。この「宿られた」との語は、荒野に天幕を張るという意味を併せ持つ。荒野に天幕を張る民は、創世記の族長の暮しに重なる。族長は助けを求めてきた人を締め出さず、飢えている人には食事を、渇いている人には水を分かち合った。人は自尊心を回復すれば再び立ちあがる。それは相手を大切にするところから始まる。闇に勝利するいのちの光。光あれ、との天地創造の言葉が新たに響き渡る。いまだかつて、神を見た者はいない。ヨハネによる福音書は率直に記す。続いて「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。独り子なる神とは、飼い葉桶に眠る無力な幼子に身をやつしている。それは神の愛の証し。メシアの訪れの喜びを、混沌とした時代を開拓するためにも分かち合い、光あるうちに光の中を歩もう。

2015年12月13日日曜日

2015年12月13日「クリスマスの秘義」稲山聖修牧師

聖書箇所:ルカによる福音書1章26~38節

 洗礼者ヨハネの母エリザベトの身籠もりの出来事から6ヶ月目、天使ガブリエルはダビデ家のヨセフという人の許嫁であるおとめのところに遣わされた。出エジプト記に登場するモーセの姉と同根の名をもつマリアの生い立ちについて物語は関心を寄せず、系図にも子細を記さない。さらに物語の劇的さにかけては他の福音書の追随を許さないはずのルカ福音書で、天使ガブリエルの祝福はあまりにも唐突に告げられる。戸惑うマリアへ畳みかけるように告げられたのは「あなたは身籠もって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」との宣言。この宣言はあまりにも一方的でマリアの事情を一切考慮しない。マリアはいのちの身籠りだけでなく、こどもの将来までも告げ知らされてしまうのだ。「どうして、そのようなことがありえましょうか、わたしは男の人を知りませんのに」とのマリアの答えに耳を澄ますと、マリアがガブリエルの受胎告知を拒んでいるかのようにも聞こえる。「そんなことはありえない。わたしは男性を知らないから」と語るマリアは、処女懐胎など理屈ではありえないことをよく分っていたのではないか。
そんなマリアの態度を、ガブリエルの言葉は打ち砕く。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。ガブリエルの決定的な言葉は「神にできないことは何ひとつない」。マリアはヨセフとの結婚なしに身籠もることが、その時代のユダヤ教では死罪にあたる姦通の罪、不倫の罪を意味するリスクを知りながら「わたしは主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と受け容れた。
 イエス誕生の予告の箇所はマリアの召命の出来事としても読みとれる。モーセですら奴隷解放の呼びかけを五度に渡り拒む。天地の創造主なる神の御子を、被造物でありながら授かる救い主の受肉の秘義。これを我が身に引き受けたマリアの勇気。この勇気なくしてイエス・キリストが世に生まれる出来事は語れない。「お言葉通りになりますように」。クリスマスの秘義が開示されるその時を、日々の喧騒に立ちつつも静かな喜びに包まれながら待ちたい。

2015年12月6日日曜日

2015年12月06日「ベツレヘム、いと小さき者」稲山聖修牧師

聖書箇所:ミカ書5章1~5節

 今月初め、エルサレム旧市街の古代のごみ捨て場を発掘していた調査隊が「ユダの王アハズの子ヒゼキヤ」と記された粘土の印章を見つけたという。列王記やイザヤ書に描かれる紀元前8世紀の人物の実在が証明されたとの知らせ。ヒゼキヤ王の印章があろうことかごみの中から発掘されたのは感慨深い。
 今朝の聖書箇所はヒゼキヤの頃に働いた預言者ミカの言葉として知られる。同時期の書物として有名なのはイザヤ書であるが、この二つの書物の共通点と温度差は歴然としている。共通点は、主なる神の公正な裁きの結果に生じる平和について類似した文言が記される点。他方イザヤ書がエルサレムの平安を語るのに比して、ミカ書は神によるエルサレムの破壊を告げる。イザヤはその時代の宮廷で活躍したとされているのに比して、ミカは辺境の街モレシェト出身であることがその理由としては考えられよう。ミカはアッシリアの侵略に慄くユダ王国の都エルサレムの支配階級にも、やがて併呑されるイスラエル王国の都サマリアと同質の、貧しい人々への傲慢さを見抜いていたのだろうか。
 エルサレムの住民は、街の破壊と二度にわたる捕囚の体験を経てなおも生存の可能性を与えられた。けれどもモレシェトの人々やエフラタのベツレヘムのような辺境の人々は棄民の悲しみを味わう。その悲しみをともにしながら、ミカ書の5章1節には「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とある。
凡そ八百年の時を重ね、ミカ書の言葉はマタイ福音書2章6節で再登場する。その引用には福音書記者による解釈が入り込む。それは「ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さいものではない」。この変更はミカ書では終末を前にして訪れる救い主がこれから到来するとの見解に立つのに比して、福音書は救い主がすでに訪れたという確信に立っているからだと言える。ベツレヘムは救い主の誕生の地として光を与えられる。周辺に立つところで救い主の誕生が告げ知らされる。人生の周辺に立たなければあり得ない出会い。救い主はどこでお生まれになったか。見つけられたヒゼキヤ王の印章とともに、あらためてその問いを聖書に投げかけていきたいと願う。