2015年11月22日日曜日

2015年11月22日「実りの喜びは垣根を超えて」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章1節~8節

カイサリアはローマ帝国が属州ユダヤを支配するために整えた街。ローマの軍隊も駐屯したことだろう。本日の聖書箇所に登場する百人隊長はコルネリウス。軍人が具体的な名前とともに描かれ、初代教会に連なっていることが明記されているのには私たちには驚かされる。使徒言行録は実に人間的な側面からコルネリウスを描く。曰く「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」。
使徒言行録は、世の力に属する軍人としてではなく、神の国に連なる者としてコルネリウスを描こうとする。いかなる世の権力も神の前には無力化される。世の権力は侮れないものの、暫定的なしくみに過ぎない。他方、神の国とは創造主なる神ご自身による世の直接統治であり、それはキリストの啓示に基づいて知られる。コルネリウスは世と関わりながら、世の力を超える神の国にキリストを通じて連なる者。それゆえ、世の常識では測りがたい出会いと導きの中に招き入れられる。
その道筋は、神の天使が訪れ、コルネリウスがその出会いに恐怖を禁じ得ないところから始まる。天使は語る。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」。この出会いと交わりは、世の様々な垣根を超えなければ困難な道。イエス・キリストに示された神の国の訪れの出来事は、この世の分け隔てを全て無効にする。御使いが示す人々はその実りを先取る教会の交わりに属している。
私たちは被造物であり、主なる神は天地の創造主である。主なる神からの委託として、世の全てのいのちを祝福する役割が果たせなくなれば国家とて終焉を迎える。私たちはとかく国単位で人を見ようとするが、使徒言行録の視点は全く対照的である。実はこの視点こそ争いに満ちた世にあって要としたい尺度である。シリアの難民だけでなく、北米大陸の先住民と大地の実りを分けあい神に収穫感謝の祈りを献げたピューリタンもまた難民。引揚げと焼け跡からの復興を知る私たちには果たして他人事だろうか。次週からは待降節。主イエス・キリストは、難民の姿に身をやつし幼き日々を過ごされた。いのちの創造主を讃える喜びは、世の垣根を超える。