2015年10月18日日曜日

2015年10月18日「キリストへの転向」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録9章1節~19節

『ガラテヤの信徒への手紙』でパウロは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしており、そして先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていたと記す。その記事にはユダヤ教徒であり律法学者として教会を迫害していた過去を顧みつつも何ら後ろめたさは読みとれない。それではこの手紙の成立から30年ほど経て記された使徒言行録で律法学者サウロはいかにしてキリストへと顔を向けたのか。
 サウロの変容に大きな影響を及ぼす人物に初代教会のアナニアがいる。このアナニアにサウロを訪ねよ、との主の言葉が臨む。視力を失ったサウロの目が再び見えるようにするのをサウロ自ら幻で見たからだと語る。けれどもアナニアは抗議する。この抗議には凝縮された初代教会全体の動揺。主はその動揺を圧して「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」と語る。サウロの転向には初代教会の癒しの物語が含まれることを忘れてはならない。これまで暴力とともに迫害された初代教会からの赦しと助けがサウロに新たな世界を開いた。この前提には「主イエスの名による苦しみ」がある。
時に励まされる「証しの物語」には、本来ならば公然と言葉にできない苦しみや悲しみに満ちた体験がある。主イエスとの出会いはその悲しみを、単なる悲しみから神の御心に適った悲しみへと変えていく。キリストへの転向の結果、時には悲しみに対する感受性や苦しみを感じる力が鋭くなり、その結果いのちの呻きを見逃すことができず、却って傷つく機会も増えるだろう。私たちは何かを手に入れるために信じるのではない。神様へと自らの生活を献げるという逆転の発想のもと、私たちは日々神様から導きを備えられて歩むのである。主は自己救済に向けられた目を必ず開く。新たな世界の尺度となるのは、人間の善悪の基準ではなく、イエス・キリストが神の国の希望に基づいて示された基準である。誰かを憎むのであるならば、まずその憎しみを神にぶつけよう。悲しみを神に訴えよう。サウロが教会に抱いていた憎しみを、主イエスは見事に受けとめた。サウロはイエスの十字架の愛に爽やかなまでに敗れ、使徒パウロとなる。私たちもその道を歩む。