2015年12月27日日曜日

2015年12月27日「神の前に立つ年の瀬」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章23節後半~33節

今年最後の日曜日を迎えても私たちはクリスマスの最中にある。クリスマスの出来事の喜びの響きの中で、あらためて使徒言行録に立ち返ると、イエス・キリストの恵みがローマ帝国の社会的立場や格差を包み込んでいることを改めて思い知る。今朝の箇所で「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに来て、足もとにひれ伏して拝んだ」とある。コルネリウスがローマ帝国の市民権を持つ将校であり、軍人であることを踏まえると、彼の行動は大胆である。ローマ帝国の市民権もなく、もとはといえばガリラヤの一漁師であった使徒を迎え入れ、伏し拝んでいるからだ。その姿は飼い葉桶に眠る幼子を伏し拝む東方の三博士と重なる。
教会には実に多彩な職業や立場にある兄弟姉妹が集うが、「わたしもただの人間です」とのペトロの言葉には当時には珍しい普遍的な人間像が見てとれる。ペトロの「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」との言葉に等しい重さは軍人コルネリウスの軍律にもあったに違いない。そのことを承知の上でペトロは「けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と語る。これは単なる古代ユダヤ教における汚れと清めに関する規定を越えて、教会はどんな人でも排除してはならないのだとする解釈も可能だ。私たちの世にあって分け隔てとなる全ての垣根をクリスマスの出来事は取り払った。使徒言行録の物語には、その時代の人間世界の考えでは想像もつかない交わりが、教会を介して網の目のように張り巡らされている様子が窺える。
神の前に立つ年の瀬。畏れながらも、神の国のモデルとしての教会とつながりながら、私たちは新たな希望を授けられたことは確かであった。福音書の記された時代からは2000年の隔たりを持ちながらも、聖霊の力によって、聖書の世界と私たちは固く結ばれている。どのような立場にいようと、どのような生業に立っていようと、主は私たちの歩んだこの一年のかけがえのない歩みを用いて、色鮮やかな神の国を描いたタペストリーを織りあげてくださる。新たな年に向けて、主が命じられたことに、耳を傾けて歩みたい。

2015年12月20日日曜日

2015年12月20日「救い主の光、輝く朝」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~18節

 ヨハネによる福音書の書き出しには「初めに言があった。言は神ととともにあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内にはいのちがあった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある。この文章が示す事柄とは何か。
 この福音書の書き手はギリシア思想の影響を受けた人々からの声に向き合った。ギリシア思想の世の捉え方とは、善と悪、陰と陽、光と影という二項対立。その世界で、ヨハネによる福音書は二つの対立を乗り越える「言」に救い主の姿を重ね、救い主を「神と世との仲立ちをされる方」として刻む。その光が照らす闇とは何か。
例えるなら、クリスマスの原風景に欠かせないベツレヘム。ルカによる福音書が描き出すこの街では、誰もが自分のことばかりに気を取られ、里帰りしたヨセフと身重のマリアに扉を閉ざす。閉じた扉に光は差し込まない。
年の瀬には教会に生活の糧を乞う人々を迎える場合もある。「お金を貸してください」と呟く訪問者への対応の中、実は求めが金銭にはなく、人として向き合ってほしいとの叫びを聴く。言葉の字面に気をとられ、見落としてしまう尊厳がそこにある。
 今朝の礼拝で強調したいのは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との箇所。神の言イエス・キリストは、肉となってわたしたちの間に宿られた。人としてお生まれになった。この「宿られた」との語は、荒野に天幕を張るという意味を併せ持つ。荒野に天幕を張る民は、創世記の族長の暮しに重なる。族長は助けを求めてきた人を締め出さず、飢えている人には食事を、渇いている人には水を分かち合った。人は自尊心を回復すれば再び立ちあがる。それは相手を大切にするところから始まる。闇に勝利するいのちの光。光あれ、との天地創造の言葉が新たに響き渡る。いまだかつて、神を見た者はいない。ヨハネによる福音書は率直に記す。続いて「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。独り子なる神とは、飼い葉桶に眠る無力な幼子に身をやつしている。それは神の愛の証し。メシアの訪れの喜びを、混沌とした時代を開拓するためにも分かち合い、光あるうちに光の中を歩もう。

2015年12月13日日曜日

2015年12月13日「クリスマスの秘義」稲山聖修牧師

聖書箇所:ルカによる福音書1章26~38節

 洗礼者ヨハネの母エリザベトの身籠もりの出来事から6ヶ月目、天使ガブリエルはダビデ家のヨセフという人の許嫁であるおとめのところに遣わされた。出エジプト記に登場するモーセの姉と同根の名をもつマリアの生い立ちについて物語は関心を寄せず、系図にも子細を記さない。さらに物語の劇的さにかけては他の福音書の追随を許さないはずのルカ福音書で、天使ガブリエルの祝福はあまりにも唐突に告げられる。戸惑うマリアへ畳みかけるように告げられたのは「あなたは身籠もって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」との宣言。この宣言はあまりにも一方的でマリアの事情を一切考慮しない。マリアはいのちの身籠りだけでなく、こどもの将来までも告げ知らされてしまうのだ。「どうして、そのようなことがありえましょうか、わたしは男の人を知りませんのに」とのマリアの答えに耳を澄ますと、マリアがガブリエルの受胎告知を拒んでいるかのようにも聞こえる。「そんなことはありえない。わたしは男性を知らないから」と語るマリアは、処女懐胎など理屈ではありえないことをよく分っていたのではないか。
そんなマリアの態度を、ガブリエルの言葉は打ち砕く。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。ガブリエルの決定的な言葉は「神にできないことは何ひとつない」。マリアはヨセフとの結婚なしに身籠もることが、その時代のユダヤ教では死罪にあたる姦通の罪、不倫の罪を意味するリスクを知りながら「わたしは主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と受け容れた。
 イエス誕生の予告の箇所はマリアの召命の出来事としても読みとれる。モーセですら奴隷解放の呼びかけを五度に渡り拒む。天地の創造主なる神の御子を、被造物でありながら授かる救い主の受肉の秘義。これを我が身に引き受けたマリアの勇気。この勇気なくしてイエス・キリストが世に生まれる出来事は語れない。「お言葉通りになりますように」。クリスマスの秘義が開示されるその時を、日々の喧騒に立ちつつも静かな喜びに包まれながら待ちたい。

2015年12月6日日曜日

2015年12月06日「ベツレヘム、いと小さき者」稲山聖修牧師

聖書箇所:ミカ書5章1~5節

 今月初め、エルサレム旧市街の古代のごみ捨て場を発掘していた調査隊が「ユダの王アハズの子ヒゼキヤ」と記された粘土の印章を見つけたという。列王記やイザヤ書に描かれる紀元前8世紀の人物の実在が証明されたとの知らせ。ヒゼキヤ王の印章があろうことかごみの中から発掘されたのは感慨深い。
 今朝の聖書箇所はヒゼキヤの頃に働いた預言者ミカの言葉として知られる。同時期の書物として有名なのはイザヤ書であるが、この二つの書物の共通点と温度差は歴然としている。共通点は、主なる神の公正な裁きの結果に生じる平和について類似した文言が記される点。他方イザヤ書がエルサレムの平安を語るのに比して、ミカ書は神によるエルサレムの破壊を告げる。イザヤはその時代の宮廷で活躍したとされているのに比して、ミカは辺境の街モレシェト出身であることがその理由としては考えられよう。ミカはアッシリアの侵略に慄くユダ王国の都エルサレムの支配階級にも、やがて併呑されるイスラエル王国の都サマリアと同質の、貧しい人々への傲慢さを見抜いていたのだろうか。
 エルサレムの住民は、街の破壊と二度にわたる捕囚の体験を経てなおも生存の可能性を与えられた。けれどもモレシェトの人々やエフラタのベツレヘムのような辺境の人々は棄民の悲しみを味わう。その悲しみをともにしながら、ミカ書の5章1節には「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とある。
凡そ八百年の時を重ね、ミカ書の言葉はマタイ福音書2章6節で再登場する。その引用には福音書記者による解釈が入り込む。それは「ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さいものではない」。この変更はミカ書では終末を前にして訪れる救い主がこれから到来するとの見解に立つのに比して、福音書は救い主がすでに訪れたという確信に立っているからだと言える。ベツレヘムは救い主の誕生の地として光を与えられる。周辺に立つところで救い主の誕生が告げ知らされる。人生の周辺に立たなければあり得ない出会い。救い主はどこでお生まれになったか。見つけられたヒゼキヤ王の印章とともに、あらためてその問いを聖書に投げかけていきたいと願う。

2015年11月29日日曜日

2015年11月29日「救い主を待ち望む」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章9節~23節

使徒ペトロが観た食を巡る幻を中心に繰り広げられる物語は、使徒ペトロでさえその時代のユダヤ教のもつ戒律主義に囚われていた事実をも照らし出す。ペトロは「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りてくるのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こして、屠って食べなさい』という声がした」との幻を見る。これはユダヤ教の戒律主義を引きずる人々には衝撃的である。衛生状態を保ち、様々な病から身を守るための戒めが、転じてユダヤ教徒とそれ以外の者を分け隔てる選民思想の拠り所ともなった。
しかし旧約聖書にはこの姿勢を克服する物語がある。創世記9章には「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』」とある。この箇所は洪水の後に、食を媒介にした神との交わりが回復されたとの解釈を可能にする。全ての人の飢えと渇きを癒す食卓に分け隔てがあってはならない。人は死んではならないから、という原則がイエス・キリストの名を通じて更新されるのだ。
ペトロの見た幻は、コルネリウスの部下と二人の召使いの訪れへの備えを示した。その幻に従い、三人の異邦人の訪問に際してペトロはその人たちを迎え入れ、「泊まらせた」。この言葉からは、使徒ペトロと異邦人の間に生じた、食卓をともにする深い交わりが想定される。
 そもそも使徒ペトロとコルネリウスとの出会いは「神の天使」の訪問に基づく。使徒言行録とゆかりのあるルカ福音書の中で天使が登場する場面と言えば、バプテスマのヨハネの誕生を知らせ、マリアの受胎告知を行い、野の羊飼いに救い主の訪れを、主の栄光ととともに告げ知らせた箇所。ペトロと三人の使者との出会いには、この出来事に匹敵する重さがあると記されるのである。かつてない格差社会と難民問題の顕在化。救い主の訪れが今ほど待望される時代はない。主にある自由が全ての人に仕える自由を含むならば、困窮の中にある全ての人々の言語や文化のユニークさを敬いつつ、ともにクリスマスを祝う教会形成に励みたい。

2015年11月22日日曜日

2015年11月22日「実りの喜びは垣根を超えて」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章1節~8節

カイサリアはローマ帝国が属州ユダヤを支配するために整えた街。ローマの軍隊も駐屯したことだろう。本日の聖書箇所に登場する百人隊長はコルネリウス。軍人が具体的な名前とともに描かれ、初代教会に連なっていることが明記されているのには私たちには驚かされる。使徒言行録は実に人間的な側面からコルネリウスを描く。曰く「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」。
使徒言行録は、世の力に属する軍人としてではなく、神の国に連なる者としてコルネリウスを描こうとする。いかなる世の権力も神の前には無力化される。世の権力は侮れないものの、暫定的なしくみに過ぎない。他方、神の国とは創造主なる神ご自身による世の直接統治であり、それはキリストの啓示に基づいて知られる。コルネリウスは世と関わりながら、世の力を超える神の国にキリストを通じて連なる者。それゆえ、世の常識では測りがたい出会いと導きの中に招き入れられる。
その道筋は、神の天使が訪れ、コルネリウスがその出会いに恐怖を禁じ得ないところから始まる。天使は語る。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」。この出会いと交わりは、世の様々な垣根を超えなければ困難な道。イエス・キリストに示された神の国の訪れの出来事は、この世の分け隔てを全て無効にする。御使いが示す人々はその実りを先取る教会の交わりに属している。
私たちは被造物であり、主なる神は天地の創造主である。主なる神からの委託として、世の全てのいのちを祝福する役割が果たせなくなれば国家とて終焉を迎える。私たちはとかく国単位で人を見ようとするが、使徒言行録の視点は全く対照的である。実はこの視点こそ争いに満ちた世にあって要としたい尺度である。シリアの難民だけでなく、北米大陸の先住民と大地の実りを分けあい神に収穫感謝の祈りを献げたピューリタンもまた難民。引揚げと焼け跡からの復興を知る私たちには果たして他人事だろうか。次週からは待降節。主イエス・キリストは、難民の姿に身をやつし幼き日々を過ごされた。いのちの創造主を讃える喜びは、世の垣根を超える。

2015年11月15日日曜日

2015年11月15日「絶望からの再起と喜び」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録9章32節~36節

主イエスが磔刑に処せられるまでは言わずもがな、その後も失敗続きの姿をさらし続けたペトロは、何度もマイナスからの出発を繰り返さなければならなかった。人一倍欠けや破れの覆いペトロ。そのペトロにパラクレートス、助け主としての聖霊の力が注がれることで、ペトロに連なる教会は立ちあがる勇気を備えられてきた。
今朝の箇所でペトロは福音書の主イエスの働きをなぞるように働く。その描写はさらに細かさを増す。本日の物語の第一の舞台となる街・リダはヤッファに近かった。ヤッファとは現在のテルアビブと重なる街。使徒の働きには次第にサマリアの人々だけでなく、異邦人との接触も増えてくる。例えば中風で八年もの間病床にあったアイネアに響いたペトロの「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」との言葉はイエスの人となりを知らないアイネアにさえ立ちあがる力を注いだ。それだけでなくリダとシャロンに暮らす人々を主に立ち帰らせる出来事へと拡大する。続くドルカスの甦りの記事では描かれる人々の息吹が聞こえるようだ。
 使徒言行録の記事からはドルカスが初代教会に連なる女性であったことが分る。ドルカスは奉仕に熱心な女性であった。しかし彼女はその働きの中で息絶える。亡骸の清めは、死への絶望を示す。使いによって案内されたペトロは亡骸の安置された部屋で、ドルカスが生前に作った下着や上着を見せて涙とともにその働きを証しするやもめたちに出会う。貧しいやもめへの奉仕を惜しみなく続けてきたドルカス。なぜ!との嘆きの中、ペトロは「タビタ、起きなさい」と語る。マルコによる福音書の主イエスのわざに関わる「タリタ、クム」と語りかける場面と重なると指摘する人々も少なくないが、決定的に異なるのは、ペトロはサマリアにあってこのわざを行っている点。ペトロのなめた辛酸は、この場に居合わせたやもめたちの嘆きを喜びに変えた。この出来事は、使徒言行録の献呈先となるローマ帝国の高級官僚のテオフィロも巻き込む。テオフィロはこのような人々の群れから神の国の訪れの喜びが聞こえると考えたであろうか。この喜びの力はローマ帝国を圧倒する。私たちの奉仕のわざには、神の国の力によって備えられた力が秘められている。教会の奉仕を喜びつつその力に信頼したい。

2015年11月8日日曜日

2015年11月08日「教会の礎、信仰の根」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録9章26節~31節

律法学者サウロのキリスト教への転向は、初代教会を迫害する側にも迫害された人々にも青天の霹靂。この事件が劇的に描かれるほど、初代教会の大きな疑いと戸惑いが表明される。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」。サウロの登場によって教会に一大変革がもたらされる。サウロは処刑以前のイエスと直接には関らずに、なおも力強く福音を証しする次世代先取り型とも呼ぶべきキリストとの出会いを経験しているからだ。サウロには「慰めの子」バルナバがエルサレムの使徒への仲介者として関わり、あたかもサウロがエルサレムにおける使徒たちから認められたかのような記述が続く。
 但しそう簡単には話は進まない。例えば「ギリシア語を話すユダヤ人」は虎視眈々とサウロの命を狙う。いずれにせよキリストの招きはサウロに大きな危機をもたらしたのは確かだが、同時にサウロは初代教会の「兄弟たち」から逃れの道を備えられ、故郷タルソスで雌伏の時を過ごすこととなった。続く「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」と記す箇所は使徒言行録の大きな節目。この箇所で初めて「教会」則ち「エクレシア」が主語をなすからである。
 「エクレシア」には神の真理に関わる事柄が真理問題として多数決原理を超えて問われる。同時に歴史としてのヘブライ的な考え方も反映される。サウロは旧約聖書を戒律主義的に解釈する道を批判したのであり、旧約聖書そのものを決して否定しなかった。そして論争相手となったエルサレムの教会を財政的に支援する旅の途上で落命することとなる。サウロの考えとしては、異邦人の教会とエルサレムの教会はイエス・キリストを頭とする共同体として一つであり、具体的には豊かな多様性が教会の不可欠な特質となる。
イエス・キリストの啓示に示された神の愛を、サウロは使徒として主張して譲らなかった。この恩寵に私たちの信仰も根を深く下ろす。この根があるからこそ世の風雪や嵐に耐えつつ信仰は花を咲かせる。本日の礼拝では幼児祝福式が行われるが、こどもたちの将来もまた神さまの愛に深く根を下ろしイエスさまに導かれる、主のみ旨に適ったものであるよう切に祈る。

2015年11月1日日曜日

2015年11月01日「眠りについた人々の初穂」稲山聖修牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ.15章12節~24節

 主のもとに召された兄弟姉妹とも守る礼拝。私たちは遺影を前にして沈黙する。しかし世の終焉の地や道筋や姿を問わず、遺影に映る兄弟姉妹は主の御手の中で安らぎを備えられている。主のもとにおられる兄弟姉妹と今この場にある私たちはともに主が創造された被造物である点で今なお変わらないところは忘れてはいけない。東アジアの生活文脈と決定的に聖書が異なる点は「死人の復活」を語って止まないところ。それはイエス・キリストの出来事として受け入れることによって初めて開示される永遠のいのちへの扉である。この扉と関わりにより、死は滅びではなく、世の完成にいたるまでの眠りとしての暫定的な意味しか持ちえない。私たちのいのちの被造物としての制約は、神の国の訪れによって究極的には突破される。その突破の先駆けが十字架に架けられたイエス・キリストの姿であり、墓を出でて弟子たちと語らうキリスト・イエスの姿である。主のみもとに召されたいのちは、今や神ご自身が世に刻まれた、かけがえのない歴史となり、今を生きる私たちの背中を力強く押して止まない。
 本日の聖書の箇所で目を留めるところは15章22節。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」との箇所。パウロに従うならば復活とは旧約聖書との関わりの中で聴き取られるべき。例えば、創世記3章3節に記される記事。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました』」。蛇の仕掛けた誘惑に人が陥る場面で記された、この「死んではいけない」との呼び声が今を生きる私たちに分かち合われる。これは神の絶対的な宣言だ。キリストの復活によってアダムもまた命の息吹を新たに吹き込まれる。「アダム」とはヘブライ語で「人間」をも意味するからだ。この生と死の逆転は、死人の復活という「あり得ない出来事」を「すでに起きた出来事」として指し示す。主イエスは、死を滅びには留まらない新たないのちにいたる眠りへと大転換する。この転換の出来事を通じて、主のもとにある兄弟姉妹が遺した証しは、いのちの勝利を讃美している。
 

2015年10月25日日曜日

2015年10月25日「主よ、どうか助けたまえ」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録9章1節~19節

 11月第1主日はローマ・カトリック教会では「諸聖人の日」。この日と宗教改革記念日は深く関わる。ルターが当時のローマ・カトリック教会の贖宥状(しょくゆうじょう)に対する問題提起『95ケ条の論題』を書き送った日付がその記念に定められる。善行を積み天国の聖人の功徳を教会への献金と引き換えに分けてもらい、天国に入る前段階である煉獄での清めに資するという考えへの問題提起が総論をなす。こうした「行為義認」に対する「信仰義認」というルターの主張はパウロ書簡なしには考えられない。ルターは幾度も審問を兼ねた討論に召喚され遂には破門。帝国議会では自著の撤回を迫られ「われここに立つ。主よ、どうか助けたまえ」と述べたという。
本日の聖書の箇所では生命の危機と隣り合わせの中でサウロがキリスト者として目覚めた様子が描かれる。後のパウロ、則ちファリサイ派出身のサウロはイエスがメシアであることを律法から緻密に論証する。だからといって初代教会からの違和感は消えない。他方、転向者としてサウロはかつての仲間からは命を狙われる。今やサウロは世にある安息の場所を失った。
私たちも各々の場所で、真摯に隣人に向き合い新たな事柄を始めようとする際には、様々な排除を覚悟しなければならない場合がある。交わりが分断された時代、居場所を失う人は増えるばかり。その中で、私たちはますます主にある交わりを育むことが求められる。それは教会の教勢拡大という観点のみからは論じられない。あくまでも主なる神から賜ったセーフティーネットワークに連なる者として、聖書の御言葉とともに声なき声に耳を傾けるところから始まる。沈黙の中で私たちは世の苦しみや悲しみとともに、主の御声を聴きとる力を授かる。そしてキリストの肢体であり、神の国の先取りとしての交わりの集合体でもある教会が逃れの場となる。フィリピの信徒への手紙の「わたしたちの本国は天にあります」とのパウロの言葉は、人の世の離散の姿を指摘するのではなく、教会が神の国を待ち望む共同体であることを示す。この世の国家と教会が証しする神の国との間には、主の賜物として緊張が不可避。その緊張関係の中で教会は絶えず改革されていく。私たちも主なる神の恵みの中で日々新たにされる。「主よ、どうか助けたまえ」との声を日々の祈りに重ねながら。

2015年10月18日日曜日

2015年10月18日「キリストへの転向」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録9章1節~19節

『ガラテヤの信徒への手紙』でパウロは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしており、そして先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていたと記す。その記事にはユダヤ教徒であり律法学者として教会を迫害していた過去を顧みつつも何ら後ろめたさは読みとれない。それではこの手紙の成立から30年ほど経て記された使徒言行録で律法学者サウロはいかにしてキリストへと顔を向けたのか。
 サウロの変容に大きな影響を及ぼす人物に初代教会のアナニアがいる。このアナニアにサウロを訪ねよ、との主の言葉が臨む。視力を失ったサウロの目が再び見えるようにするのをサウロ自ら幻で見たからだと語る。けれどもアナニアは抗議する。この抗議には凝縮された初代教会全体の動揺。主はその動揺を圧して「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」と語る。サウロの転向には初代教会の癒しの物語が含まれることを忘れてはならない。これまで暴力とともに迫害された初代教会からの赦しと助けがサウロに新たな世界を開いた。この前提には「主イエスの名による苦しみ」がある。
時に励まされる「証しの物語」には、本来ならば公然と言葉にできない苦しみや悲しみに満ちた体験がある。主イエスとの出会いはその悲しみを、単なる悲しみから神の御心に適った悲しみへと変えていく。キリストへの転向の結果、時には悲しみに対する感受性や苦しみを感じる力が鋭くなり、その結果いのちの呻きを見逃すことができず、却って傷つく機会も増えるだろう。私たちは何かを手に入れるために信じるのではない。神様へと自らの生活を献げるという逆転の発想のもと、私たちは日々神様から導きを備えられて歩むのである。主は自己救済に向けられた目を必ず開く。新たな世界の尺度となるのは、人間の善悪の基準ではなく、イエス・キリストが神の国の希望に基づいて示された基準である。誰かを憎むのであるならば、まずその憎しみを神にぶつけよう。悲しみを神に訴えよう。サウロが教会に抱いていた憎しみを、主イエスは見事に受けとめた。サウロはイエスの十字架の愛に爽やかなまでに敗れ、使徒パウロとなる。私たちもその道を歩む。

2015年10月11日日曜日

2015年10月11日「いのち」牛田 匡神学生

聖書箇所:詩編139編13~18節

 昨日の土曜日は、「命のつながり」というテーマで「こひつじカーニバル」がありました。7月に保育園にやって来たヤギの「ゆきちゃん」に動物のお友達を見つけようということで、豚、七面鳥、羊、牛、ニワトリ等々、子ども達が扮する様々な家畜達が登場し、友達になってくれました。フィナーレでは福島県の「希望の牧場」の牛さんからのお手紙が届きました。そして保育園の子ども達も「希望の牧場」や東北の震災で困っている方々へのお手紙を書いて、みんなでポストに投函した所で、今年のカーニバルは幕を下ろしました。
「希望の牧場」は福島第一原子力発電所から直線距離で、わずか14kmにある牧場で、原発事故によって牛達は被爆し、出荷する事が出来なくなりました。牛達は出荷出来ませんので経済価値はゼロですが、それでも牧場の方々はそんな牛達を、自身が被爆しながらも、飼育し続けて来ています。その牧場の様子は絵本にもなっていて、保育園の子ども達もお話を聞いて来ました。
 本日の詩編139編は私達に「命は誰のものか」という事を明確に教えてくれています。「私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった」「私は恐ろしい力によって、驚くべき者に造り上げられている」そして私達への神様の御計らい、御心というものは、あまりにも尊く、数多く、計り知れないと書かれています。世界中の全ての「命」が、神様によって、日々生かされています。人間の目から見たら一見価値が無いように思われても、生きている意味が分からないように思われても、神様の目から見て無駄な「命」などあるのでしょうか。「命」とは、社会的に役に立つか否かという事ではないはずです。私達全ての命を造られたのは神様であり、神様こそが私達一人一人の命の目的、「使命」をご存知です。ですから、人間が勝手に命を価値判断する事は出来ませんし、またしてはいけないのだと思います。何故なら「命」は私達のものではなく、神様のものだからです。
 私達は今日も神様によって生かされている「命」として、自他の「命」に丁寧に向き合い、つながり合って生きる事。私たちに出来る事なすべき事は、ただそれだけなのだと思います。今日も自分に与えられている「命」、同じく周りの方々にも与えられている「命」を、お互いにお大事にし合いながら、生かされて行きましょう。神様はそのように私達を生かして下さっています。

2015年10月4日日曜日

2015年10月4日「こころに聖書が響くとき」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録8章26節~8章40節 

 サマリアからエルサレム、そしてガザへと、フィリポは御使いに派遣される。新共同では「寂しい道」とあるが、「荒野の道」「砂漠の道」とも訳せる。その途上に出会ったのはエチオピアの女王の宦官を乗せた馬車。宦官は係累を絶ち、家族を断念して宮廷に仕える。権力欲に取憑かれることなく、彼はエルサレムまで礼拝に訪れ、イザヤ書を読みながらの帰路につく。古代には黙読の習慣はないゆえに、宦官がイザヤ書を読む際は世人の知るところとなる。自らの男性性までも捨て去り宮廷に仕える姿は、正統的なユダヤ教徒には異様に映る。申命記23章で禁じられた通り、この人は穢れたものとして神殿への立ち入りを制約されていた。しかし同時に宦官は、僕であり奴隷である身の上を自覚している。物語の書き手は、どの性差にも属さない人物を登場させ、そして御言葉に肉薄する気迫に満ちた者として描く。しかし宦官はイザヤ書53章に躓く。フィリポの「読んでいることが分かりますか」との問いに逡巡なく宦官は答える。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。宦官はイザヤ書53章7節から8節を読んでいた。使徒言行録にも、聖書のメッセージに戸惑う人の姿が描かれる。
 イザヤ書53章は11節に「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」とあるように「主の僕の歌」として知られる。福音書で主イエス・キリストが、御言葉をめぐる戦いに臨んだのも荒れ野。悪魔による、石をパンに代えてみよとの誘惑。神を試してみよとの誘惑。そして悪魔自らにひれ伏して富と権力を手に入れてみよとの誘惑。この誘惑は聖書の言葉を引用しながら行われた。フィリポがイザヤ書から解き明かしたのは、救い主が荒れ野で先取りした十字架への苦難の道であろう。この解き明かしにより宦官のこころに聖書は響いた。その後二人は聖なる領域に入る。それは豊かに水を湛えている場。その場所こそ新たにいのちを授かる場所。宦官は洗礼を受けた。そして初代教会に連なる証し人とされた。水から上がるとフィリポは姿を消した。ルカによる福音書の24章の記事と同じようにで、ある。御言葉を問い尋ねる旅路は、決して寂しくはない。それは喜びに包まれた出会いの道でもある。宦官の問いに自らの姿を重ね、私たちも御言葉を問い尋ねる旅路を歩むのだ。

2015年9月27日日曜日

2015年9月27日「あなたの求めるものは何か」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録8章9節~8章15節

フィリポの働きを眺めていた魔術師シモン。彼にとって受洗への願いは、洗礼を通じて使徒たちと同じ力を得る欲望でもあった。シモンの願いは教会が陥りがちな課題として他人事ではない。自分の願う事柄が教会との関わりで時を待たずして成就して欲しいとの願い。御利益宗教とは異なって、聖書に描かれる奇跡とその実りは、神との関わりの中でもたらされる。問うべきは奇跡そのものではなく、奇跡が示す事柄。聖書の奇跡は他者に向かうのであり、自己救済ではない。その実りのかたちも多様性を帯び、必ずしも欲するものとは必ずしも一致しない。けれども神の力がその多様性をもたらしているならば、私たちも感謝とともに受けいれられるはずだ。8章10~11節で繰り返される「注目する」とは関わる対象に縛られることも示す。人々はシモンの行うわざに注目し、縛られていた。そしてシモン自らも身動きがとれずにいたのではないか。
ペトロとヨハネがサマリアへ行き、人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。サマリアの人々は文字通りキリスト者となった。但しシモンには、未だ使徒たちの行うわざの力にしか関心がなく、この力を金で買おうとする。この態度に使徒ペトロは向き合う。
金銀は我になし、とエルサレムで語った使徒ペトロは神の賜物を授かっていた。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい」。「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ」。「お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている」。ペトロは、身動きのとれなくなったシモンの課題を見破っていた。そしてシモンは祈りの実りが金では買えないこと、けれどもそれなくして人間は神の前に生きることは適わないことを告白した。これも神の赦しの証しでもあった。『コリントの信徒への手紙二』でパウロも記す通り、私たちは土の器。それは実にもろい。だが、そのもろさを心底知る者は、神の国とのかかわりの中で授けられる偉大な力を同時に知る。塵にも等しいこの身のかけらからも、主なる神が新たな創造を行われる。そして傷つけば傷つくほどに、私たちは神の愛の受け皿として用いられる。日毎の暮しの中であなたが求めるものは何か。イエス・キリストは、すでにあなたを求めている。

2015年9月22日火曜日

2015年9月20日「いのちの祝福は憎しみを超えて」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録8章1節後半~8章8節

王を戴く道を選んでおよそ70年間続いたとも伝わるヘブライ統一王国。その爛熟期に端を発する格差社会の問題は何ら解決されないまま暴動と内乱へと拡がり、北はイスラエル王国、南はユダ王国に分裂する。イスラエル王国の都はサマリア。ユダ王国の都はエルサレム。分断国家の歴史の象徴としてサマリアは都市機能をもつにいたった。
サマリアで仰がれた金の子牛。それは豊穣と繁栄の象徴への礼拝。モーセの十戒の中では固く禁じられていた。豊穣さのもたらす果実は明暗を併せ持つ。繁栄もまた人間の野心に火をつける。イスラエル王国は軍事大国アッシリアに併呑、略奪と強制移住の中で伝統を喪失する。後世のエルサレムの人々はサマリアの住民を穢れた裏切りの民として軽蔑したが、主イエス・キリストは「敵を愛しなさい」と説き、実践した。神にできないことは何一つない。主イエスは語った。
ステファノの死後起きた大迫害の結果、キリスト者はエルサレムから散らされる。この場面で活躍するのはフィリポ。フィリポはエルサレムからサマリアに赴きながら、エルサレムでの使徒ペトロのわざを反復する。その結果、エルサレムからの難民がサマリアの人々を喜びに包む。「町の人々は大変喜んだ」。これが今朝の聖書の結びである。
現在、水曜日の祈祷会では小預言書を味わっている。中でもミカ書はアッシリア帝国がイスラエル王国を呑み込もうとするときに、預言者ミカは全てのイスラエルの民の立ち返りと救い主の訪れを語る。ミカ書の中ではサマリアとエルサレムに、神の前に等しく破れを負う者として連帯責任が問われる。この道筋の中で救い主の訪れが告知される。
安保法制の審議に際してこの国の行方を憂いた一週間が過ぎた。その中で繊細な危うさを抱えながらも立ちあがった青年がいる。5年前の東日本大震災以降、最も多感な季節を過ごした青年は、世の冷酷さと暖かさを、生命の危機と離散の中で感じた世代に属する。エルサレムからの難民が福音をサマリアの人々に告げ知らせたとの記事と重ねると実に感慨深い。私たちは大人として何を遺すべきか。争いの火種ではなく、神の国を目指しながら、イエス・キリストの福音に活かされる喜びを後生に遺すのだ。敵味方の恩讐を超えて注がれるいのちの祝福。その力に満ちた交わりを託したい。

2015年9月13日日曜日

2015年9月13日「イエス・キリストの焼き印」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録7章54節~8章1節

やもめへの配慮をめぐってギリシア語を話すユダヤ人キリスト者から提起された問題に際し選ばれた7人の使徒。その使命は初代教会に生じた分裂を、聖霊の力において癒し和解へと導く働きだった。特にステファノは恵みと力に満ち「すばらしい不思議なわざとしるし」ゆえに際立つものの、煽動された民衆、律法学者や長老に捕縛されてエルサレムの最高法院に訴えられ、本来の働きができないまま拘束される。しかし告発の場に引き出されたステファノの表情は「さながら天使の顔のように見えた」とある。この「天使のように見えた」という言葉から、ステファノの新たな使命が分かる。天使とはいわば主のメッセンジャー。その内容がステファノの最高法院での申し開きとしての説教となる。ステファノは最高法院を恐れずにイスラエルの民の神への離反を指摘した。
その結果待ち受けていたのは人々の暴力。民の憤怒とは対照的に、ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ神とイエス・キリストを仰ぐ。ステファノは神の真実に立ち、あるがままのメッセージを語った。耳を塞ぐ人々は彼を引きずり出し、古代ユダヤ教の死刑である石打刑を執行する。ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫び、眠りについた。ステファノの使徒としての役割は完成された。 
そして分裂した教会を和解に導くというステファノの使命は、その殺害に賛成していたファリサイ派の若者サウロに継承される。神の選びは人の思いを超える。そしてその人ならではの固有の役割を備える。サウロは後にパウロと名乗り使徒として活躍する。パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』で「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」と記す。ギリシア語で「焼き印」とはスティグマータ。本来は奴隷や犯罪者の帯びる入れ墨などのしるしを意味する。主イエスの奴隷となることを通じて、この世の様々な権力や抑圧、情念からの解放と自由を、パウロは神から授かる。ステファノがあらゆる恐怖から自由であったように。人はこの道に導かれ、主にあって齢を積み重ねる。
今朝の礼拝では長寿感謝式を行う。イエスの焼き印を通して、齢を重ねることで賜物として与えられる伸び代に気づかされる。サウロは教会を数多く迫害する。その中で彼は使徒となる。聖霊の働きの中で齢を積み重ねたい。